第9話「眠りを奪う回廊」 その2 黒痕の病室と熱の影
朝の光は澄んでいるのに、県警の空気はどこまでも重かった。
高峰修一は、机に積み上げられた資料の束を前に、何度目かの深い息を吐いた。
報告書には、短期間で九十名に達した被害状況が無機質に並んでいる。
半数以上が発狂、もしくは心不全で死亡。
残りは昏睡か、錯乱。
たった数週間でこれだ。
そのどれもが、“眠れない”“熱い回廊が見える”と語っていた。
報告書の文字が、まるで燃え跡のように見えてくる。
(これは……感染症じゃない。異常現象だ)
そう思わざるを得ないほど、共通点が多すぎた。
「高峰警部補、また搬送がありまして……」
鑑識の若い刑事が息を弾ませて走り寄ってきた。
「今朝四時、大学院生の男性が錯乱状態で運ばれました。
“焼ける廊下が迫ってくる”と叫んでいたそうです。
……肩に、例の黒い痕がありました」
「黒痕……またか」
薄い火傷のようでいて、皮膚の内側が変色している。
どの医師も説明できない傷。
高峰は資料の端を軽く叩いた。
(全員同じ症状、同じ幻視……これはもう偶然じゃない)
そのとき、スマホが震えた。
画面に表示された名前は──『中森』。
あの情報屋だ。
祓屋・真名井梓の影で動く男。
「……高峰です」
『やあ。死にそうな顔してるな。
状況は大方見えてきたか?』
「見えてくるどころか混沌だ。
九十名の被害者。死者は三十を超えた。
何が起きているのか、説明はどこにもない」
『そりゃ説明できるわけない。普通の現象じゃないんだから』
中森の声は、軽いが切れ味がある。
聞きたくない答えが続く、と分かる話し方だった。
「お前、何か知ってるな」
『まあな。
祓屋から依頼された調査をしていると、変な“熱信号”が拾える。
今回の残響は、過去の残響とは規模が違う。
街一帯の睡眠状態に干渉している。
……“大きすぎる”。』
「理由は?」
『知らねえよ。ただ、強い。底が見えない。
ただの残響じゃない。
歴史の向こう側から“引かれている”感じがある。』
「……何が言いたい」
『言いたいのはひとつ。
あんたら警察がどうあがいても無理だ。
真名井を呼べ。あれがいないと死ぬぞ』
「もう連絡した。向かってる」
『ならいい。あと──新しい武器、梓に渡してある。
今までの祓詞じゃ太刀打ちできん。
“熱”に対抗するための特注品だ。』
「熱……?」
『おっと。言い過ぎたな。
ま、現場で見りゃ分かる。死なないようにな』
通話が切れた。
高峰はしばらくスマホを握ったまま動けなかった。
(……熱に対抗?
中森は何を掴んでいる……)
思考の途中で別の刑事が駆けてきた。
「高峰警部補!
さっき搬送された村田悠希という男性、意識が戻りましたが……
病室で、空間の一部が“揺れた”と看護師が……」
「揺れた?」
「黒い影が壁に貼りついたようで……すぐ消えたらしいです」
(まただ……)
空間が揺れる、影が貼りつく、電子記録が途切れる。
残響が現実に干渉するとき、必ず起きる現象。
「病院に向かう」
上着を掴み、走った。
病院の空気は、明らかに異様だった。
廊下は薄暗く、光がどこか歪んでいる。
看護師たちの足取りが重い。
村田悠希の病室は、隔離対応になっていた。
看護師が、小さく震えた声で高峰に説明する。
「……村田さんが目を開けた直後、壁が黒く……
煤のようなものが広がって……
向こう側に誰か立っていた気がして……
でも、一瞬で消えて……」
「記録映像は?」
「その瞬間だけ、真っ黒です。ノイズもありません。完全な空白で」
高峰は病室のドアを押し開けた。
村田悠希はベッドに横たわり、酸素マスクをつけていた。
顔は白く、肩に黒い痕が浮かんでいる。
その痕を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
(……焼け跡、じゃない。
“何かの手”の跡だ)
病室の温度が少しだけ上がった。
高峰は眉をひそめた。
外気温ではない。空調の誤作動でもない。
空気が、どこからか押し寄せる“熱”で揺れている。
(来る……)
直感が刺した。
壁紙の一角が、じわ……と黒く染まり始めた。
白い壁に、煤が滲むように広がり、
そこから木造の梁の影が浮かび上がる。
焼けた回廊。
黒く焦げた天井。
板が軋む音が、空気ごしに伝わる。
(また……これか)
回廊の奥──
揺らめく影が佇んでいる。
人型。
だが輪郭が炎で歪んでいる。
胸の中心だけが、あざ笑うように赤熱を帯びて脈打つ。
高峰は息が止まった。
(……馬鹿げている。人間の影じゃない。
それでも……“いる”としか言えない……)
目が離せない。
影が一歩、前へ踏み出した。
ぎり……ぎり……ぎり……
木が裂ける音が、現実の空気を震わせる。
高峰の心臓が、嫌な汗を浮かべた。
(ここに……現れた……)
村田悠希が、かすれた声を漏らした。
「……また……来る……
あの……赤い……熱……」
影の胸の光が、脈打つ。
熱が、病室全体に満ちた。
(真名井──早く来ろ)
思わずスマホを取り出し、ダイヤルする。
「真名井、病院だ。
“熱”の残響が出てきてる。
……もう待てない、来てくれ」
「了解しました。すぐ行きます」
通話を切った瞬間、影がわずかに揺れ、
胸の赤光がひどく明滅した。
そのとき、病室のドアが開き、医師が入ってきた。
影は──壁の奥へと溶けるように消えた。
黒い煤だけが残り、すぐにそれも消えた。
医師は何も気づかず、モニターを確認している。
(認識阻害……
俺と患者にしか見えないってことか)
高峰は、冷たい汗を拭った。
(真名井……急いでくれ……
これ以上、誰も死なせたくない)
胸の熱はまだ、じりじりと残っていた。




