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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第1章 世界はまだ、正しく壊れている

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第1話 団地消失エリア事件 その4 祈りの中へ

 北湾第六団地一号棟、六階。


 六〇一号室の前には、規制線が張られていた。

 ここだけ、空気の密度が違う。

 肌に触れる空間が、少しだけ重い。 


真名井まない

 高峰たかみねが低く声をかけた。


「確認しました。室内の論理層ろんりそうが、明確にずれています」 


「論理層……」 


「簡単に言えば、この場所だけ世界のルールが変質しています」


 高峰は苦笑した。

「一般人には説明できないな、それ」 


「“ここだけバグってます”で十分かと」 


「……確かに」 

 彼は静かに一歩下がる。 

「中に入るのは、お前だけか?」 


「はい。その方が影響を最小限に抑えられます」 


「支援は?」 


「必要になれば、こちらから回線を開きます」 


「……無事に」


「はい。戻るつもりで行きます」 

 それだけ告げて、梓はドアの前に立った。 


 ポケットから、量子暗号札りょうしあんごうふだ を一枚取り出す。

 札を、ドアの中心にそっと貼りつける。

 

 淡い光。 

認証開始にんしょう・かいし……」

 梓は八鍵やつかぎ を軽く振る。

 空間に見えない波が広がった。 


残響構造ざんきょうこうぞう、検出……

 閉鎖領域へいされょういき、確定……」 

 イヤーカフに口を寄せる。 

祓詞起動ふつし・きどう」 


 一瞬、世界が無音になる。 


(大丈夫……落ち着いて……)

 梓は小さく息を吐き、ドアを開けた。 


 中は、白。 

 だがそれは光ではない。

 色でもない。

 現実の質感しつかんが抜け落ちた情報空間じょうほうくうかん

 上下も、距離も、重力も意味を失った場所。

(もう……精神層せいしんそうに入っている) 


 八鍵が微かに震える。 

位置座標いちざひょう、補足……」 

 空間の中に、ひとつの“風景”が浮かび上がった。

 団地の六畳間。

 ただし——

 畳は途中で溶け、

 壁は捻じれ、

 天井は空へ続いている。


 形はあるのに、

 論理の整合性だけが失われている。

 中央に、点があった。 

 人に似た形を持つ、

 複数の記憶と感情が絡み合った

 集合型残響しゅうごうがた・ざんきょう


「……確認できました」

 梓は、静かに息を整える。

「北湾第六団地・住民残響……

 集合構造体しゅうごうこうぞうたい

 それは“祓詞”ではない。

 ただの観測宣言。

 残響が、ゆっくりと揺らいだ。


『……いかないで……』

『……ここにいたい……』

『……忘れられたくない……』 

 いくつもの声が重なって響く。

(……未練の集合体)

 梓は、小さく吐息を漏らした。

「ですが」

 声を低くする。

「この状態は、生存せいぞんでも死でもありません」


「ただの、“孤立”です」

 左手に、量子暗号札りょうしあんごうふだ を浮かべる。

「この空間は、外界と切断されたまま不安定に漂っています」

『……でも……』

『……ここしかない……』

「だからこそ」

 梓は、八鍵を構える。

「ここを、あなたたちの

 記憶の墓標きおくのぼひょう にします」

 抹消ではない。

 再構築でもない。


 意味を与えて、

 影響を閉じる。

 八鍵が淡く発光する。

祓詞展開ふつし・てんかい

 対象:閉鎖型残響構造へいさがたざんきょうこうぞう

 梓の声が、一定のリズムを刻み始める。

認識固定にんしき・こてい……

 意味整列いみ・せいれつ……

 外部干渉がいぶかんしょう遮断しゃだん……」

 空間に、文字列が浮かび上がった。

 祝詞の構文と、

 プログラムコードが重なった記号群。


「祈りは……コードです」

 梓の声が静かに響く。

「壊れたコードは、修正できます」

『……ほんとうに……?』

「はい」

 小さく、頷く。

「あなたたちの後悔も、

 憎しみも、

 願いも、

 ここに残します」

「ただ、

 外へは出させません」

 八鍵を、まっすぐ突き出した。

祓詞最終段階ふつし・さいしゅうだんかい


 声が低くなる。


記憶層きおくそう分離ぶんり開始……

 思念ノード、再配置さいはいち……

 外界接続がいかいせつぞく切断せつだん……」

 空間が大きく脈動した。

 団地の部屋が、ほどける。

 床が霧になり、

 壁が光になり、

 天井が消える。

(……ここに、閉じていて)

 梓は心の中だけで、そう願った。

(誰にも、もう触れさせない)

 八鍵が強く光る。


「——修正、完了かんりょう

 空間に残ったのは、

 灰色の、名もない記憶の結晶。

 それが、

 何もない虚空に、ひとつだけ浮かんでいる。

 梓は、それをしばらく見つめていた。

「……これで、いい」

 小さく呟いた瞬間、

 視界が白く反転する。


 ——現実世界 

 六〇一号室、玄関。

 八鍵の光は、もう弱まっていた。

 量子暗号札は一枚、灰色に変色して床に落ちている。

「……終了です」

 梓は通信へ向けて、小さく告げた。


『お疲れさま』

 高峰の声。 

『中はどうだった?』


 梓は少し考え、答える。

「……まだ、“救いようのある”残響でした」 

 その言葉には、

 自分でも説明できない重さがあった。

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