第6話「影の消える交差差点」 その5 揺れ戻る輪郭
翌朝の光は、やけにまっすぐだった。
病院の一室、佐伯悠斗のベッド脇で、梓は静かにモニターを見つめていた。
意識は戻っている。
呼吸も落ち着いている。
だが、瞳の奥がどこか揺れている。
影に触れられた者独特の“魂の揺らぎ”がまだ残っていた。
「……ゆうと、聞こえる?」
母親の呼びかけに、悠斗はゆっくりと首を動かした。
目は母親を追っているのに、焦点が合うまでの時間が少し長い。
「……うん」
声は弱いが、はっきりしている。
完全な人格崩壊を免れたのは幸運だった。
(影を取られる寸前でした。
もう少し遅ければ、“こっち側”には戻れなかった……)
梓は胸の奥で安堵し、静かに息を吐く。
「息子さんは大丈夫です」
梓は母親へと丁寧に頭を下げた。
「記憶に一部の抜け落ちがあるかもしれませんが、
数日から一週間で戻ると思います。
影は……ちゃんと、戻っています」
母親は目を真っ赤にして何度も頷いた。
「ありがとうございます……ありがとうございます……!」
梓はその涙を見つめながら、
(名が戻ることは、生者としての帰還……
本当に、よかった……)
と静かに思った。
⸻
病院を出ると、まだ朝の冷気が残っていた。
高峰が駐車場で缶コーヒーを片手に待っている。
「助かったよ、真名井。
あいつ、影が消えたって時点で半分あきらめかけてた」
「間に合ってよかったです。
“影喰い”は、喰われた側の存在を、影の底に沈めますから……
影が戻れば、存在の輪郭も戻ります」
「難しい話はわからんが……
影が戻ったなら、それでいい」
高峰はコーヒーを一口飲んでから、ふと梓を見る。
「……で、今回はどういうタイプだったんだ?」
「“裏返り領域型”の残響です。
影を裁き、奪い、存在を“反転した世界”へ運ぶ……
江戸期の“裁き”の祈りが、肥大化したものでした」
「あの黒衣の男か」
「はい。
山田浅右衛門……
彼の職務の祈りが、影のOSに深く残っていたのでしょう。
残響は罪を裁くつもりで……ただ、今の世界では歪みにしかならなかった」
「……死刑執行人の残響、か」
高峰は静かに息を吐いた。
「お前たち祓屋の世界は、本当に厄介だな」
「……すみません。
私は、ただ“壊れたものを正しく戻す”だけです」
「謝んな。
お前のおかげで、何人も助かってる」
梓は少しだけ目を伏せた。
そう言われることに慣れていない。
⸻
ふと、高峰が横顔で言う。
「ところで、佐々木のほうは?」
昨日の戦い。
結衣は、影の渦の中を迷いのない動きで斬り続けた。
彼女がいなければ、浅右衛門の“影裁ち”は止まらなかっただろう。
「もう帰りました。
……あの人は、私と違って“滅殺”の方の祓屋ですから」
「そういう問題か?」
「彼女にとって“影喰い”は……特別な因縁があります。
詳しくは言えませんが……
影に引き込むタイプの残響は、彼女の──」
梓は言葉を慎重に選んだ。
「……大切な人を奪った類型です」
高峰は眉をひそめるが、深くは聞かない。
「無理に話さなくていい。
ただ……あの子、すごい動きだったな。
影の上で戦ってるように見えた」
「はい。
結衣さんは“影の情報層”を踏める体質です。
滅殺に特化した祓屋……言葉は荒いですけど、実力は本物です」
「仲良くは……なれなさそうだな」
「多分、無理です」
「だよな」
二人とも、苦笑した。
⸻
その時、梓の量子札が微かに光る。
境界反応。
まだ“残り影”がある。
「高峰さん……
この交差点、完全には終わっていません」
「またかよ。
何だ?」
「浅右衛門さんの消滅は、あくまで“影の核”の解体です。
影の底に残った断片が、残っています」
「再発するか?」
「十分ありえます。
ただ……今回は“首を落とす裁き”としてではなく、
“影の揺らぎ”として現れるはずです。
人が死ぬほど強くはないでしょう」
高峰は喉の奥で唸った。
「完全に消す方法は?」
「残響は、祈りや怨念や歴史の“積み重ね”です。
完全な消滅は──私ではできません。
削り、整え、“世界の理”に戻すまでです」
「お前の仕事は、いつも大変だな」
「……でも、それが私の役目ですから」
梓は光を消した量子札を胸元に戻し、
交差点の方向を見つめた。
朝の光の中で、
横断歩道には、人々の影がはっきり伸びている。
「……影が、戻っています。
ちゃんと」
それは今日を生きる人々の証だった。
誰かの罪でも、誰かの祈りでもない、
“今”の存在の輪郭。
(この世界は、まだ大丈夫)
梓はそう思って、ひとつ微笑んだ。




