第5話「焦げ落ちる病棟」 その4 黒炎を運ぶ者
梓は、患者の枕元に置いた量子暗号札へ、静かに指を添えた。
札は呼吸に合わせるように脈動し、赤とも金ともつかない色が滲む。
「……入ります。少し痛みますが、必ず戻しますので」
低く丁寧な声が、病室の空気を整える。
梓は目を閉じ、精神層へ沈み込む。
世界が、一度だけ“ぱちり”と跳ねた。
次の瞬間、黒い炎が渦を巻く世界へと立っていた。
足元の床は、焼け焦げた畳のようであり、
同時に、電子ノイズがひび割れた回路のようでもある。
(……やはり、“燃やし書き換える”残響)
梓は周囲を観察した。
患者の精神世界は、ほぼ“焼け落ちて”いる。
名前が記された場所――その記憶領域が、完全に焼失していた。
「……間に合うといいのですが」
そう呟いた時だった。
風もないのに、炎がざわりと揺れた。
黒い炎の奥から、猫の影が歩いてくる。
濡れた足音……パシャ、パシャ、と水が滴る音。
背中は燃え、尾は逆向きに流れ、
その目は、闇に溶けた黄色い灯を宿していた。
梓は一歩、静かに下がる。
猫影が、梓を見据え、牙のような白骨を覗かせた。
その背後――黒炎が縦に割れた。
亀裂から“人型の影”が姿を現す。
古めかしい裁きの席の衣。
頭巾のような黒布。
腰には縄を模した影が揺れている。
梓はその姿を見て、息を呑んだ。
(……この威圧……常の残響ではありません)
影の男は、患者の精神の残骸を踏みしめながら、ゆっくりと近づく。
「名前のない者は、罪深い」
「名を失うは、存在を失う」
低い声が、黒炎の奥から響く。
梓は深呼吸し、敬語の口調へ戻った。
「あなたは……誰ですか。
ここは患者さんの精神世界です。
どうか、退いていただけませんか」
影の男は立ち止まり、梓を見下ろした。
「名を尋ねるか。
ならば、告げよう」
黒炎が大きく波打つ。
空気が灼け、床がひび割れる。
「――遠山左衛門尉 景元」
梓の視線が鋭くなる。
江戸期、火付盗賊改方において、
数多くの火刑判決を下した人物。
火刑の増加により“火を呼ぶ裁き”として噂された人物。
(この病院で起きた“焼損と記録消失”……すべて繋がりました)
「あなたは死者ではありません。
残響です。どうか、この方の精神から離れてください」
「断る」
景元は、ゆっくりと手を伸ばした。
その手は黒炎に包まれ、触れたものを“名前ごと”焼き尽くす気配を持つ。
「名無き者の魂、運び去るは我が役目。
罪を持たぬ者に名は不要。
名を失った瞬間、その者は灰」
「……名を焼いて、存在を消すおつもりですか」
「然り。名を焼けば、すべてが灰」
患者の精神世界に残っていた記憶の断片が、黒炎に触れた途端、
ふわりと“燃え尽きる”。
(……このままでは、患者さんは――完全に消えてしまう)
梓は、ひとつ深呼吸をした。
恐山で見た景色が脳裏をよぎる。
“祈りと自己を重ね合わせて形を変える世界”。
そこで得た“火の祈りを転じる方法”。
梓は量子札を一枚、指でそっと払う。
札が赤い光を宿す。
景元が、静かに目を狭めた。
「祓うか。
貴様……“火”を扱える祓屋か」
「いえ。
私はただ――“歪んだ祈り”を正しい形へ戻す者です」
梓はゆっくりと祓詞の構えを取る。
敬語の声が、黒炎の空気を震わせた。
「……では、始めましょう」
景元は影縄を引き締め、黒炎が一気に膨れ上がる。
「名無くば灰!
運ぶは我が役!」
黒炎が梓へ殺到した。
梓は静かに祓詞を紡ぐ。
「祈りの火よ――」
空気が震えた。
景元の眼が揺らぐ。
「その火は“燃やすための火”ではありません。
“照らすための火”です」
梓は、量子札を前へかざした。
赤い光が、黒炎の渦に切り込む。
祓詞が発動した瞬間、
黒炎が裂け、景元の顔が苦悶に歪む。
梓の声は、静かで美しかった。
「禍つ焔よ、形を違えしまま燃ゆるなかれ。
主の祈りを歪めし火よ、正しき灯へ還れ――」
黒炎の中に“赤い灯火”が生まれる。
それは、祓詞の光と混ざり合い、黒炎の勢いを削っていく。
景元が怒号を放つ。
「名を焼く役……奪うか……!」
「いいえ。
役目を否定はしません。
ただ――人の“名と存在”を燃やすのは、間違いです」
景元の輪郭が揺れる。
黒炎が後退し、患者の精神世界の奥に小さな“白い光”が現れる。
それは――患者が最後に自覚していた“名前の欠片”。
「……これが……あなたの……」
梓が伸ばした手に、景元が叫ぶ。
「渡すな!」
黒炎が再び溢れ出す。
だが梓は、正面から踏み込んだ。
「返していただきます。
あなたが運ぶものは“死者の魂”。
“生者の名”ではありません」
祓詞が輝く。
「――祓詞《佑火転調式》!」
赤と白の光が黒炎を貫き、
景元の姿が、大きく揺らめいた。
黒炎が裂け、影がほどける。
「う、ぬ……っ……」
景元は後退し、猫影がその足元にすがりつくようにして揺れる。
黒炎が完全に崩落する直前、
景元は梓を鋭く睨みつけた。
「……役目……果たさねば……歪むのだ……世界は……」
その言葉を最後に、影は焼け落ちた。
梓は、患者の“名の欠片”をしっかりと抱え、
ゆっくりと目を開いた。
病室に戻ると、患者は小さく呻き声を漏らし、
かすれた声で――小さな、自分の名前を呟いた。
残っていた最後の光が、現実へ戻ったのだ。
「……おかえりなさい」
梓は、静かにそう告げた。




