第5話「焦げ落ちる病棟」 その2 名を焼く妖
病棟前の駐車スペースは、朝の光を浴びて白く霞んでいた。
冬の乾いた空気に、焦げの匂いがひそかに混じる。
その中へ、一台の小さなハイブリッド車が静かに滑り込む。
運転席から降り立ったのは、黒のダークスーツに身を包んだ女性――真名井梓。
髪はきちりと結い、前髪はまっすぐ下ろされ、どこにも隙のない佇まい。
「……まだ、残ってる」
彼女は一言だけ呟く。
その声は普段の落ち着いた敬語よりも、僅かに低かった。
一人の時だけ出る“本来の声”。
焦げた気配が、風に乗って皮膚を刺す。
恐山で、思念の深層を覗いた時の、あの“熱”に似ていた。
「病院の火……違う。これは“焼かれた記憶”」
梓は歩きながら、外観の中にある歪みを見つけていく。
看板の影に、薄い煤の筋。
救急入口の床に点々と残る濡れ跡。
その形は小さく丸い――猫の足跡のようだった。
(動物が入った痕跡……でも、それだけじゃない。
“運ばれた”跡がある)
火……運ぶ……消える……
頭の中に並ぶ要素を、梓は静かに反芻する。
病院の自動ドアをくぐると、高峰が立っていた。
「来たか」
「はい。状況はお聞きしました。
……想像以上ですね」
「見たのか?」
「外だけでも、“火の通り道”がありました。
何かが、ここを歩いています。
しかし、それは……人ではありません」
高峰はため息をついた。
「残響か?」
「断定はまだ。
けれど、人の“記録”に直接干渉している以上、普通ではありません。
高峰さんの言葉を借りれば、“パターン”です」
「病院職員は怯えてる。
現場を見てくれ」
案内された病室には、焦げた壁と円形の焼損跡が残されていた。
梓は、指先に触れずに空気を撫でる。
焼けた痕跡に熱は残っていない。
だが――
「……燃え方が、不自然です」
「不自然?」
「火は上に上がるものです。しかし、これは……
“掴んだ部分だけが燃えている”」
「掴む?」
「はい。
まるで、手でつままれたような――」
梓は言葉を止める。
焦げ跡の中央、小さな丸い焼け跡に視線を落とす。
「ほんの一瞬……“高熱で押された”ような跡。
火傷というより、焼印に近い。
誰かが……いえ、“何かが”。
患者さんの胸に触れている」
「サーモグラフィでは?」
「極端な温度跳ねが出ていましたね。
ログの温度上昇と一致しています」
梓は病室の窓辺へ移動し、外を眺める。
病院敷地の端に立つ古い防火水槽、その水面も静かなはずなのに、
風もないのに薄波が立っている。
温度の跳ね。
水の跡。
焼けた空気の振動。
「……“火”と“水”が同時に起きる現象。
この地域には、古い言い伝えがあります」
「言い伝え?」
「火葬や死者の運搬にまつわる……
しかし、まだ決めつける段階ではありません」
梓は真剣な表情で振り返る。
「高峰さん、患者さんの“名前”が消えているのは重大です。
記録の消失だけでなく、“本人の記憶”も部分的に消えている。
これは……誰かが、存在そのものに干渉している」
「やっぱり、残響か」
「ただの残響ではありません。
これは、“思念を燃やす系統”の何かです」
梓はそっと、胸の内に触れる。
恐山での修行で得た感覚――
“祈りと自己”が交錯する領域を見たときの、あの異様な残響。
(同質の気配……いや、もっと古い)
「高峰さん、ひとつ、お聞きして良いですか」
「何だ」
「この患者さん……
最後に残した言葉はありますか?」
「看護師が言うには、
『廊下で猫が鳴いている』らしい」
梓は目を閉じた。
「猫の鳴き声……
火と共に現れる動物……
死者の運搬……
記録の消失……」
視界の奥で、点と点が線を描き始める。
(これは、ただの妖怪ではない。
“器”のほうの性質……
そして、中にいる“人格データ”が、記録を焼いている)
「真名井」
高峰が呼ぶ。
「正体は分かりそうか?」
「はい……“特徴”は、掴めました。
ただ、名前はまだ言えません。
確証がないので」
「いい。特徴だけで十分だ。
次は何をする」
「患者さんの精神層を調べます。
記憶の焼損があるなら……
精神世界に、“煤”が残っているはずです」
「危険じゃないのか?」
「恐山で……少し、強くなりましたから」
梓はわずかに微笑む。
「大丈夫です。
もうあそこに比べれば……怖くありません」
その言葉に、
高峰は“何が本当に危険だったのか”を聞き返す気にはなれなかった。
「では、準備します。
……高峰さん。
患者さんのお名前。
教えていただけますか?」
「名前は……」
高峰は苦い顔をする。
「分からないんだ。
消えてる」
「分かりました。
なら、“消された名前の跡”から、辿ります」
梓はそっと、量子暗号札の束を指先で払う。
札がわずかに赤く光る。
火の気配に反応している。
「やはり……“燃やす思念”ですね。
これは、厄介です」
梓は静かに息を整え、病室を見渡した。
「高峰さん。
患者さんをしばらくお預かりします。
精神層へのアクセスを試みます」
「頼む」
梓はうなずき、
焦げた病室の中心に立つ。
「……行きます」
量子札がふわりと浮き、紅の光が闇に揺れた。
そして――
病室の空気が、一瞬だけ“熱を持った”ようにゆらめいた。




