第5話「焦げ落ちる病棟」 その1 焼けたはずのない火
救急搬入口のシャッターは、半分だけ開いたまま固まっていた。
冬の朝の空気が、そこから細く流れ込んでくる。高峰修一は、吐く息が白いことだけが「いつもの現場」と「今回の現場」の境目のように感じていた。
ストレッチャーの上には、黒く縮んだ塊が乗っている。
人間の形は、ぎりぎり辛うじて残っていた。だが、皮膚は炭を貼り付けたように割れており、指先だけが異様に黒く、長く、焦げたまま固まっていた。
「……本当に、院内でこうなったのか」
高峰が確認すると、救急隊員は顔をしかめてうなずいた。
「はい。夜勤の看護師が目の前で見ていたそうです。
酸素吸入中の患者さんが、突然、胸のあたりから“燃え上がった”と」
「ライターや、発火源になりそうなものは?」
「何も。点滴台も、配線も、異常なし。
酸素ボンベの破裂も疑いましたが、爆発は起きていません。局所的に“燃えた”だけですね」
局所的に燃えた。
言葉だけなら簡単だが、現場を見れば見るほど、説明は難しくなる。
焼損は胸部を中心に丸く広がり、腹と腕はそこそこ原形を留めている。
まるで見えない何かが胸に手を突っ込み、そのまま高温で“掴み潰した”ような跡だった。
「名前は?」
「それが……」
救急隊員は言い淀み、背後の看護師に視線を送る。白衣の女性は蒼白な顔で、絞り出すように答えた。
「名前が……分からないんです」
「は?」
高峰は顔を上げた。
「身元不明の患者なのか?」
「いいえ。昨夜までは、普通に記録もあって、家族も面会に来ていました。
でも──発火のあとでカルテを確認したら、その方のデータが……」
看護師は唇を震わせた。
「電子カルテからも、紙のカルテからも、消えていたんです」
消えていた。
高峰は無意識に眉間を押さえる。
電子データが消える、だけなら分かる。
システムの改ざん、不正アクセス、事故的な削除。いくらでも理由は付けられる。
だが、紙媒体まで同時に消えるとなると、話は違う。
「紙のカルテは、どこに保管してた?」
「ナースステーションのキャビネットの中です。他の患者さんのカルテはそのままあるのに、この方のだけ、ファイルごと消えていて……」
「誰かが持ち出した可能性は?」
「監視カメラを確認しましたが、深夜三時以降、キャビネットに触った人はいません。
むしろ、三時ちょうどを境に、映像が一瞬“飛んでいる”んです」
高峰は、嫌な既視感を覚えた。
“飛んでいる”映像、“局所的な現象”、“記録からの消失”。
残響、という言葉が頭をよぎる。
だが、すぐに打ち消した。あれは非常事態の例外だ。何でもかんでも同じ枠に入れてしまえば、捜査はただの妄想になる。
「……医療センター全体のシステムは?」
「情報システム室の方が、今、ログを出してくれています。
それと、もうひとつ」
看護師は、肩をすくめるようにして続けた。
「燃えたのは、この方だけじゃありません」
廊下を挟んだ向かい側の病室に案内される。
そこは個室で、ドアには【面会謝絶】の札が下がっていた。
「こちらは、火傷は軽いんです。でも──」
ベッドの上の患者は、腕と胸に包帯を巻かれていた。
顔は無傷に近い。だが、その瞳は空虚だった。
「お名前は?」と訊くと、患者は口を開いて、ゆっくりと首を傾げた。
「……えっと……」
言葉が、出てこない。
彼は自分の名前を思い出そうとしているのに、その“名前”がどこにも引っ掛からない様子だった。
「ご自分のことは、分かりますか?」
「俺……患者で……ここにいて……火が出て……」
そこまでは記憶があるらしい。その先は、真っ白だ。
「ご家族のことは?」
「家族……?」
患者の目の焦点が、完全に外れる。
「……家族、って、何でしたっけ」
看護師が小さく息を呑む。
高峰も、胸の中で何かが冷えるのを感じた。
検診用モニターの画面に、薄くノイズが走った気がした。
電子音が一瞬だけ波打つ。
「こちらの方も、カルテが……?」
「電子も紙も、同じように消えています」
看護師は小さくうなずいた。
「そして、この方は、発火の直前にこう言われていたそうです。
『猫の声がする。廊下で、何かがずっとこすれている』って」
猫。廊下。こすれる音。
焼ける前兆に、猫の気配。
火災や事件現場で動物が騒ぐのは珍しいことではない。
だが、動物禁止の病院で、深夜の廊下に猫がいるのは、おかしい。
「廊下を見せてくれ」
病棟の廊下は、まだ完全には消えきらない焦げ臭に満ちていた。
白い床材には、ところどころ黒い煤がついている。その中に──妙な跡があった。
床が、点々と濡れている。
拭き忘れたモップの跡、にしては形が妙だ。丸い“肉球”のような跡が、一直線に並んでいる。
猫の足跡に似ている。
水に濡れた何かが、歩いたような……
「……清掃記録は?」
「深夜帯は、掃除は入っていません」
病棟主任が答えた。
「見回りの看護師はいましたが、みんな、この足跡が“いつからあったか”分からないと言います」
足跡は、発火した病室の前で途切れていた。
焼け焦げた壁紙。
黒く丸く広がった焦げ跡。
その真ん中に、目を凝らさなければ見えないほど薄い、円形の焼け跡がある。
まるで“何かを置いた場所”が、そのまま高温になったような跡。
「ガス器具も、暖房器具もない部屋ですよね」
「はい。酸素と点滴だけです」
高峰は、胸のポケットからメモ帳を出す。
──突然の局所的発火。
──発火と同時に、患者の記録消失。
──猫の鳴き声の証言。濡れた足跡。
──監視カメラの映像の“飛び”。
組み合わせてみても、合理的な答えは浮かばない。
ただ、どこかで見た「パターン」に近いということだけが、頭の中で警鐘を鳴らしていた。
(……またか)
団地の消失エリア。
発電所跡での時間遅延。
夢に侵食する残響。
恐山で、相棒が“帰ってきた”あの日。
すべてに共通していたのは、“説明不能な異常”が、
情報と記憶に干渉していたことだ。
今回も──“何か”が、記録を、存在を、燃やしている。
だが、それを警察の報告書にそのまま書くわけにはいかない。
「情報システム室はどこだ?」
「こちらです。職員がお待ちしています」
病院の奥、機械室のような一角に案内される。
ラックに立ち並ぶサーバー。静かなファンの音。薄暗いモニターの光。
システム担当者が、徹夜明けの顔でこちらを振り返った。
「ログは出しました。こちらです」
画面には、深夜三時ちょうどのタイムスタンプが並んでいる。
電子カルテシステムのアクセス履歴。
発火した病室の患者データが、そこにあった痕跡すら残さず消えている。
「削除コマンドは?」
「実行されていません。
ログ上は“何もされていないのに、ファイルだけ抜け落ちている”状態です」
システム担当者は、苦い顔をした。
「それに、変なんです。
この時間帯、サーバーの温度が一瞬だけ“異常上昇”しているんですよ」
「温度?」
「はい。常時二十数度で安定しているはずなんですが、
三時ちょうどに、一瞬だけ七十度近くまで跳ね上がっています。
すぐに戻っているので、警報も鳴りませんでしたが……」
サーバーラックの天板には、うっすらと焦げたような匂いが残っていた。
天井の一部に、煤が小さく付着している。
「サーバー室にも、火が?」
「いいえ。火災は確認されていません。ただ、温度と匂いだけが」
“燃えた跡”は、現実ではなく、ログの中にも刻まれている。
情報の世界で燃えた火が、現実にも滲み出ている。
そんな気のする現象だった。
「つまり──患者が燃えた時刻と、サーバーの温度上昇が同時ってことか」
「そうです。
……すべて偶然だと言えるなら、その方が気は楽なんですけどね」
偶然で片づけるには、材料が多すぎた。
高峰は、静かに息を吐いた。
(合理的な説明がつかない、火と記録の消失──)
この手の現象に、自分より詳しい人間を知っている。
彼女に頼るたび、警察官としての自尊心は少し傷つく。
だが、現場に残されているものは、プライドではなく“不可解”だけだった。
救急搬入口から少し離れた場所で、高峰はスマホを取り出す。
登録名の一覧から、一つの名前を選ぶ。
【祓屋】
コールは二度で繋がった。
『──高峰さんですか?』
落ち着いた女の声が耳に届く。
夜勤明けでも、寝起きでもない、いつもの調子。
「病院だ。丘の上のデカいとこ。
患者が突然燃えた。記録ごと」
返事の前に、一瞬だけ沈黙が挟まる。
『……記録ごと、ですか』
「ああ。電子も紙も。
サーバー室も、温度が跳ねてる」
『……分かりました。
そちらに向かいます』
「来る前に、ひとつだけ聞かせろ」
『はい』
「こういう、火と記録の同時消失……お前の世界では、何か“名前”が付いてたりするのか?」
電話の向こうで、梓が小さく息を吸った気配がした。
『まだ、断定はできません。
でも──“死者を運ぶ火”という、似た民間伝承はあります』
「伝承かよ」
『高峰さんの言葉で言えば、“パターン”ですね。
現場を見ないと何とも言えませんが……
病院と火と、消された記録。嫌な組み合わせです』
「こっちも、嫌な予感しかしない」
高峰は、病棟の白い壁を見上げた。
そこに薄く残る黒い煤は、まるで「ここに何かが通った」と主張しているようだった。
「急げよ、祓屋。
この病棟、まだ“燃える余地”がありそうだ」
『向かっています。
……高峰さん、患者さんの名前は分かりますか?』
「それが、分からない。
ここにいたはずなのに、“記録上”存在しない」
『……そうですか』
梓の声に、ごくわずかな沈みが生まれた。
『では、その“名前の抜けた穴”から、見てみます』
通話が切れる。
高峰はスマホをポケットに戻し、もう一度、焼けた病室の前に立った。
焦げた壁と、途切れた足跡。
そして、搬入口に運ばれた黒い遺体。
そのどれもが、確かに“ここにいた人間”の存在を示しているのに、
病院の記録には、その人は最初から存在しなかったことになっている。
科学では説明できない。
かといって、“全部祟りだ”と片づけるわけにもいかない。
警察官としての彼は、その真ん中で立ち止まり、
いつものように小さくつぶやいた。
「……面倒な案件だな」
そう言いながらも、
どこかで「彼女が来てくれる」ことに、わずかな安堵を覚えている自分に気づいて、
高峰は舌打ちした。
まだ、事件は始まったばかりだった。




