番外編 寄生型残響・藤田宏和事件 その5 滅却記録
空気が、止まった。
悲鳴はもう、ない。
部屋の中には、呼吸の音すら残っていない。
あるのはただ、
“処理される前の世界”。
藤田宏和は、立っていた。
人の形はしているが、
人間ではない。
顔の輪郭は、まだ藤田のままだ。
だが目は違う。
目の奥に、“誰か”が住んでいる。
虚ろでも、狂気でもない。
ただ、
居座っている。
「……きれいに入ったな」
藤田の声じゃないそれが言った。
喉の奥からではなく、
部屋全体から響く。
「器、悪くなかった」
「歪みも、欲も、
ちょうどいい発酵具合だ」
結衣は、
一歩も引かない。
床に染み出した残響に足を取られないよう、
静かに踏みしめる。
八鍵を構える指は、
震えていない。
「ホストは完成?」
「さあな」
それが笑う。
「死ぬまで使うだけだ」
藤田の顔が、
わずかに引きつった。
本人の意識が、どこか奥で
まだ残っていることを示す反応だった。
とはいえ、それももう——
“末端信号”に過ぎない。
結衣は、その事実に触れない。
同情は、
遅延を生むだけだ。
「寄生型受胎残響、個体番号未記録」
淡々と、記録するように口に出す。
「依代識別完了」
「滅却対象と認定」
藤田の首が、不自然な角度で傾く。
「お前、
前にも俺たちに会ってるだろ」
結衣は眉も動かさない。
「会ったことはない」
「だが、知ってる匂いだ」
空間が歪む。
壁紙が、
人の皮膚のように、
小さく脈打つ。
天井の電灯が、
ゆっくりと明滅する。
寄生体は
自分の居場所を守るように
現実そのものへ爪を立て始めている。
だが結衣は、もう構えている。
八鍵の表面に、文字列が走る。
ただのコードじゃない。
術式化された意味構造。
祈りじゃない。
懇願じゃない。
命令だ。
「残響干渉解除」
低く。
静かに。
感情を乗せずに。
「存在構造、分離開始」
藤田の身体が、
小さく揺れた。
それを“痛み”として感じているかは、
もはや意味がない。
寄生体が笑う。
「そんなの効くかよ」
「俺たちは概念だ」
「残り続けるんだよ」
「人が“忘れたくない”限りな」
結衣は、
まっすぐに見返した。
「だから滅する」
「忘れるためじゃない」
「終わらせるために」
八鍵が光を増す。
空間の歪みが、逆流する。
染み出していた残響が、
巻き戻されるように
藤田の体内へと引きずり戻されていく。
寄生体の声が、
歪み始める。
「……おい……」
「こんな……
簡単に……」
藤田の目が、
初めて“個人”の光を宿した。
ほんの一瞬だけ。
「あ……」
誰の声でもない、
かすれた言葉。
届かない。
届かせない。
結衣は最後のコードを実行する。
「——構造遮断」
八鍵の光が、
藤田の胸元に吸い込まれていく。
まるで、
臓器を縫い閉じるように。
音は、なかった。
破裂も、爆発も、ない。
ただ、
藤田の身体が
ゆっくり崩れ、座り込む。
人の形のまま。
残響の脈動が——
止まる。
一瞬、無音。
続いて部屋が、
“ただの部屋”に戻った。
空気が流れる。
時が戻る。
結衣は、八鍵を下ろした。
呼吸は乱れていない。
だが、
胸の奥にだけ、
砂のような疲労が残っている。
そこへ、
端末が振動した。
【中森】
予想通りだった。
通話を開く。
『終わったかい、結衣』
相変わらず軽い口調。
「完了」
結衣は短く返す。
『そいつ、どうだった』
「寄生率、フル
依代としてはもう限界だった」
『だろうな』
中森は小さく笑う。
『最近、
梓の方も同系の動きが増えてる』
結衣の目が、
ほんの一瞬だけ細くなる。
「……共有業者か」
『まあな』
中森は、あっさり認めた。
『俺は情報屋だ』
『使えるやつに
流すだけだよ』
一拍。
『お前らのやり方が違うのも、
面白いしな』
結衣は答えない。
『それより』
中森が続けた。
『そのコード、
入手経路はまだ不明だ』
『だがな』
声が少しだけ低くなる。
『最近、
似た“クセ”のやつが
裏で流れ始めてる』
『品元は……』
一呼吸。
『まだ伏せとく』
結衣は、ただ言った。
「……必要な時に出して」
『ああ。
金と場所が合えばな』
電話が切れた。
夜が、戻る。
結衣は部屋を一度だけ見渡す。
残響はもういない。
だが、
何もなかったことにはならない。
床に残った気配。
空間に残った歪み。
それはすぐに消えはしない。
人の世界は、
そういうふうにできている。
「……」
八鍵を仕舞い、
結衣はドアの方へ歩く。
玄関を出る直前、
振り返りもせずに呟いた。
「滅却、完了」
それは報告ではなく、
自分自身への確認だった。
夜の風が、
廊下を抜ける。
彼女はヘルメットを被り、
バイクにまたがる。
エンジンをかける。
音が、
現実を塗り戻していく。
だが、
受胎型の残響は、
これで終わりじゃない。
それを、
彼女は知っていた。
だから走る。
誰にも言わずに。
誰にも依らずに。
ただ、
滅するだけの存在として。




