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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第45話 感じすぎるもの第4章 感じすぎたもの

 黒い亀裂が空を裂いた。


 景色が軋む。


 春が揺れる。


 夏が歪む。


 秋が崩れる。


 冬が悲鳴を上げる。


 松尾芭蕉の残響空間そのものが拒絶反応を起こしていた。


 本来入るはずのない異物。


 侵入者。


 それが強引に境界をこじ開けている。


 梓は八鍵を握り直した。


「……来た」


 嫌な予感は当たった。


 亀裂が広がる。


 黒い粒子が降る。


 そして。


 一人の少女が空間へ降り立った。


 黒いドレス。


 赤い瞳。


 胸元の翡翠。


 右手には巨大な大鎌。


 平山愛音だった。


 愛音は周囲を見回す。


 桜。


 雪。


 夕焼け。


 蝉の声。


 四季が混ざる景色。


 そして。


 松尾芭蕉。


 愛音の瞳が輝く。


「いた」


 嬉しそうだった。


 本当に。


 心の底から。


「見つけた」


 梓が前へ出る。


「愛音」


 愛音が首を傾げる。


「なに?」


「戻ってください」


「やだ」


 即答だった。


「これ、取る」


 松尾芭蕉を見る。


 翡翠が脈打つ。


 欲しい。


 必要。


 取り込む。


 その思考だけだった。


「主様が喜ぶから」


 梓の表情が変わる。


 危険だった。


 今の愛音に。


 温覚鬼は。


 最悪の組み合わせだった。


「やめてください」


「なんで?」


「あなたは今」


 言いかけた瞬間だった。


 松尾芭蕉が見た。


 愛音を。


 静かに。


 ただ見ただけだった。


《感じろ》


 低い声だった。


 その瞬間。


 世界が流れ込んだ。


 春。


 夏。


 秋。


 冬。


 旅。


 別れ。


 出会い。


 終わり。


 無数の感情。


 無数の景色。


 無数の喪失。


 愛音の身体が止まる。


「……え」


 翡翠が脈打つ。


 強く。


 強く。


 異常なほど。


 松尾芭蕉の能力が愛音へ流れ込む。


 感受性暴走。


 情緒不安定。


 感情気候化。


 そして。


 愛音の中にあるものへ触れた。


 主様。


 青木理。


 失いたくない存在。


 その傷へ。


 直接。


「……やだ」


 小さな声だった。


 景色が変わる。


 春の校庭。


 誰もいない教室。


 夕焼け。


 冬の駅。


 失われた時間。


 別れ。


 孤独。


 喪失。


 愛音の呼吸が乱れる。


「やだ」


 翡翠の光が赤黒く染まる。


 内部の鬼たちが反応する。


 骨鬼。


 血鬼。


 肉鬼。


 皮鬼。


 夢鬼。


 影鬼。


 鏡鬼。


 虚鬼。


 全部が揺れる。


 全部が感情へ引っ張られる。


 愛音が震える。


「やだ」


 涙が零れる。


「主様がいなくなる」


 梓が息を呑む。


 遅かった。


 完全に入り込まれている。


 松尾芭蕉は攻撃していない。


 ただ感じさせているだけだ。


 だが。


 愛音には致命的だった。


「置いていかれる」


 愛音が一歩下がる。


 景色が歪む。


 空間が震える。


「やだ」


 影が伸びる。


 夢が漏れる。


 翡翠の内部で鬼たちが暴れ始める。


 次の瞬間。


 轟音。


 世界が割れた。


 桜吹雪が嵐になる。


 雪が吹き荒れる。


 夏の熱気が空間を焼く。


 秋の枯葉が刃物みたいに舞う。


 感情が気候へ変換されていた。


 松尾芭蕉の能力と。


 愛音の能力が混ざっている。


 最悪だった。


 暴走だった。


 空間の一部が崩れる。


 残響空間そのものが壊れ始める。


 現実側へも影響が流れ込む。


 高峰のいる外側。


 救急隊。


 警察官。


 一般人。


 全員が巻き込まれる。


 梓が八鍵を握る。


 指先の感覚は無い。


 それでも握る。


 ここで止める。


 今しかない。


 松尾芭蕉も。


 愛音も。


 両方を。


 修正する。


 梓が前へ出る。


 松尾芭蕉を見る。


「旅は終わる」


 男が顔を上げる。


「景色は消える」


 桜が散る。


 雪が溶ける。


 蝉の声が遠ざかる。


「でも」


 梓は言う。


「残ります」


 松尾芭蕉の目が揺れる。


「人の中に」


 風が止まる。


「忘れても」


「失っても」


「消えても」


「残ります」


 男の瞳から涙が零れた。


 初めてだった。


 景色が揺れる。


 四季がほどける。


 修正条件へ届く。


 移ろいを受け入れる。


 終わるからこそ残る。


 その瞬間。


 梓は叫んだ。


「転位侵界」


 世界が反転する。


 現実と残響の境界が消える。


 修正ログが流れ込む。


 脳が焼ける。


 神経が悲鳴を上げる。


 触覚が消える。


 温度が遠ざかる。


 身体の輪郭が曖昧になる。


 だが止まらない。


 松尾芭蕉が笑う。


 穏やかだった。


《そうか》


 桜が散る。


《残るのか》


 景色が崩れる。


 旅が終わる。


 男の身体が光へ変わる。


《なら》


 最後に。


 本当に最後に。


 松尾芭蕉は笑った。


《良かった》


 そして。


 消えた。


 同時に。


 愛音へ流れ込んでいた暴走も断ち切られる。


 だが。


 修正の光は愛音へも届いていた。


 世界は。


 愛音も異常と判断した。


 修正が始まる。


 その瞬間。


 空間の奥が裂けた。


 三人。


 黒い影。


 祀社の寄生体だった。


「愛音様!」


「撤退してください!」


「早く!」


 愛音は震えている。


 涙を流したまま。


 動けない。


 修正が迫る。


 三人が飛び込む。


 愛音を押し出す。


 自分たちを身代わりにして。


「逃げてください」


「貴女だけは」


「守ります」


 修正の光が落ちる。


 三人を呑み込む。


 身体が崩れる。


 人格が消える。


 存在が消えていく。


 愛音は振り返る。


 理解できなかった。


 どうして。


 どうして死ぬの。


 どうして逃がすの。


 どうして。


 わたしを守るの。


 胸が痛かった。


 苦しかった。


 怖かった。


 そして。


 少しだけ。


 悲しかった。


 その感情の名前だけが。


 まだ分からなかった。

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