第1話 団地消失エリア事件 その2 修正という仕事
端末が震えたのは、昼を少し回ったころだった。
真名井梓は、合成皮革の椅子にもたれて、コーヒーの缶を片手に画面を眺める。
ワンルームの仕事場には、生活感というものがほとんどない。ベッドもクローゼットもあるが、それは宿泊設備のようなもので、「住んでいる」感覚は薄い。
部屋の中央にあるのは、机と、いくつかの機材と、黒い木箱。
彼女にとって、この空間は住居ではなく、作業環境だった。
端末の通知。
発信元は——東湾県警・サイバー対策室。
梓は、少しだけ眉を動かした。
ちらりと目線をやっただけで、通知を開かずに内容がわかる。
音のリズムが、いつもと違う。
「またか」
そう呟きながら、缶を机に置いた。
通知を開くと、写真と簡単なテキストが並んでいる。
【北湾第六団地・住民情報消失案件】
【残響疑いあり】
【現場確認を依頼】
その下に、高峰修一の署名。
短く「現場を見てほしい」とだけ追記されていた。
「……早いですね」
最近、この周辺で残響が増えている気配は感じていた。
ネットワークのログにも、ノイズの揺らぎが出始めていたし、何より人の“祈りの質”が変わってきている。
祈りは、時代の空気を反映する。
そして今、この都市の空気はどこか乾いていた。
梓は、机の上の黒い木箱に手を伸ばす。
それは一般的なサイズのアタッシュケースに見えるが、留め金は普通の鍵じゃない。
祝詞を模した細い回路が、表面に刻まれている。
「今日も、あなたたちの出番ですね」
そう言って蓋を開いた。
中に入っているのは、三つの道具。
ひとつは、薄い金属札の束。
複雑な幾何学模様と、古い祝詞が混ざった文字が刻まれている。
——量子暗号札。
ただの“お守り”ではない。
同時に、量子暗号化された通信キーでもあり、
残響と接触する際の認証パスの役割も果たす。
ふたつ目は、細長い黒い棒状の端末。
巫杖を模して作られた、特殊入力装置。
梓はこれを“八鍵”と呼ぶ。
本来、神事に使うはずの形を借りているが、やっていることはハードウェアとしての祓いのインターフェースだ。
そして三つ目。
小型のイヤーカフとマイク。
祓詞のための発声入力装置。
彼女の祓いは、呪文ではない。
プロトコル起動のための音声コマンドだ。
「祓いは、削除じゃない。
……修正です」
独りごちるように、梓は呟いた。
残響の多くは、バグに似ている。
しかしバグは削除するものじゃない。
本来あるべき形に戻すか、
影響範囲を制限して正常化する。
全部を消してしまえば楽だろう。
でもそれは、データごと人間を吹き飛ばす可能性がある。
——それを、彼女はもう何度も見てきた。
端末に視線を落とす。
高峰からの追加メッセージ。
【可能なら、現場で直接会ってくれ】
【周囲の住民の記憶にも異常が出ている】
「やっぱり……」
梓は小さく溜息をついた。
残響による記憶改変は、拡散すると面倒になる。
特に“記憶の欠損”型は、気づかれにくい。
気づいた時には、
その人自身の現実認識がズレ始めている。
外套を羽織り、八鍵を手に取る。
暗号札をポケットに忍ばせる。
イヤーカフを耳にかけた。
「祓屋・真名井梓。
本日も稼働開始、っと」
そう呟きながら、玄関に向かう。
廊下の床はひんやりと冷たかった。
アパートの外は、曇り空。
湿度の低い、乾いた風が吹いている。
車に乗り込み、エンジンをかける。
ナビ画面に北湾第六団地の位置が表示された。
そのとき、バックミラーに、自分の目が映った。
少しだけ、疲れている。
だが恐れてはいない。
恐れは、祈りを生む。
祈りは、残響を生む。
なら自分は、
少なくとも“材料”を与えない側にいたいと思っていた。
車が走り出す。
途中、交差点で信号待ちをしている最中に、端末が再び光った。
今度は、別の回線。
登録されていない番号だが、梓にはすぐわかる。
「……またあなた?」
通話を受けると、くぐもった男の声が流れた。
『動いてるな、梓ちゃん』
低く、平坦で、感情のない声。
しかし独特の湿度だけがある。
「あなたの“商品”のおかげでね。
今日も問題なく稼働してる」
『それは光栄だ。ちゃんと金も払ってくれよ?』
「後払いでね。今回の案件が済んだら」
短い沈黙のあと、男が鼻で笑う。
『北湾第六団地だろ。
もう嗅ぎつけたよ』
「……情報早すぎるでしょ」
『こっちは情報屋だからな。
神事の血筋舐めるなよ』
中森安行。
伊勢の系譜に連なる異端の血筋。
そして、祈りの裏側を商売に変えた男。
『あそこ、プチ臨界入りかけてるぞ。
空白の部屋周辺、思念密度が高い』
「臨界って……」
『放っとくと、“存在ごと抜け落ちる”タイプになる。
住民全体に波及するぞ』
梓は視線を、前方の道路に戻した。
「……だから修正する。
あなたの商売が長く続くためにもね」
『はは。
相変わらず殊勝だな』
中森の声が少しだけ柔らぐ。
『使ってる八鍵、もう旧型だろ?
そろそろ新しいの回そうか?』
「……予算が許せば」
『祓屋が金がないなんて言うなよ。
世界の裏側の保守担当だろ』
「あなたにだけは言われたくない」
通話が切れる直前、彼は一言だけ付け加えた。
『今回の残響、“個”じゃないぞ』
「……どういう意味?」
『集合型だ。
思念が重なってる』
ぷつ、と通話が途切れる。
梓は一瞬だけ、指をハンドルに食い込ませた。
(集合型……)
個人の祈りではない。
団地という場所に積もった、複数の“忘れられた思念”。
それは、一番厄介なタイプだ。
「高峰……」
彼の顔が脳裏に浮かぶ。
あの合理主義者が、どんな顔をするだろう。
すでに北湾第六団地の姿が見えてきていた。
灰色の箱が、いくつも規則的に並んでいる。
ただ一箇所だけ——
不自然な“違和感”が
風景の中に沈みかけている。
まるで、そこだけ現実の解像度が落ちているように。
梓は車を停め、外へ出た。
八鍵を手に持つ。
量子暗号札を指先に挟む。
「……いきます。
あとは、世界次第ですね」
そう呟くとともに、彼女は団地の影の中へ歩いていった。




