第4話 恐山・修行残響編 その4 自己という病巣
意識が沈むとき、
眠りとは少し違う感覚がある。
夢みたいに勝手に流れていかない。
自分の意思で潜っているのに、
戻れる保証がない感覚。
梓はそれを「潜航」と呼んでいた。
八鍵に軽く触れただけで、周囲の輪郭が溶け出す。
地面も、空気も、匂いも、
すべてが「意味」だけになる。
恐山の残響は、外側にいなかった。
内部にいた。
さっき出会った女性の精神層、そのさらに奥。
いや、そこに重なっている自分の精神層。
境界が、もうわからない。
「……相変わらず、入りづらいですね」
誰に向けるでもなく、呟く。
返事はなかった。
だが、応答はあった。
視界の奥に、もう一人の“自分”が立っている。
鏡ではない。
違う。
どこか決定的に違う。
髪型も、服装も同じなのに、
目元が、少しだけ違う。
「やっと来た」
その“私”が言う。
声は静かで、穏やかで、
でも、ひどく疲れている。
「もう少しで、来ないと思ってた」
「……あなたは」
梓は問うまでもなく理解していた。
「可能性の私ですか」
もう一人の梓が、軽く笑う。
「その言い方、好きじゃない」
「私は、そうならなかっただけのあなた」
空間が、わずかに歪む。
風景はもう恐山じゃない。
病院の廊下のようにも見えるし、
深夜のオフィスのようにも見える。
無機質な、
“思考の通路”。
「あなたは、今日ここで祓うのをやめようとしている」
「違います」
反射的に答える。
「私は、修正しに来た」
「誰を?」
少し困ったように微笑んで、向こうの梓が返す。
言葉が、詰まる。
さっきの女性?
恐山の残響?
過去の誰か?
違う。
「……自分ですか」
口から出て、
少しだけ苦くなる。
「そう」
相手の梓が頷く。
「あなたは、誰かのためと言いながら、
本当はずっと、自分を修正し続けてる」
「失敗しないように」
「壊れないように」
「取り込まれないように」
胸の奥で、なにかがひび割れた。
「それのどこが悪いんですか」
強めに言う。
「壊れた人間が、
壊れた世界を直すなんて、不合理でしょう」
向こうの梓は、ゆっくり歩いてくる。
距離が詰まる。
息がかかるくらいまで近づいて、
静かに言う。
「じゃあ、あなたは“直った側”なの?」
言葉が刺さる。
無痛で。
でも、深く。
「あなたは、あの人の失踪以来、
一度でも“元に戻った”?」
視界が白くなる。
夜のサーバー室。
モニターの光。
機械のファンの音。
そして——
空になった席。
「……私は」
喉が、詰まる。
向こうの梓が囁く。
「あなたは、もう“正常”じゃない」
「だから、祓いにすがってる」
「直すことで、
自分もまだ人間だって、信じたいだけ」
心臓の音が、妙に大きく響く。
「それは、あなたの意見です」
そう言い返すが、
声が少し揺れる。
向こうの梓は首を傾げる。
「じゃあ聞くけど」
「残響を全部消したら、
世界は正しくなる?」
「残響を全部“なかったこと”にしたら、
その中にいた人間の痛みも、
消えていいの?」
脳の奥が、過去を引きずり出す。
団地で壊れた親子。
時間に囚われ続けた配信者。
人格を削られた高校生。
「……消えたものは」
唇から、言葉が漏れる。
「二度と、戻らない」
相手の梓が微笑んだ。
「そう」
「それが無くなるって言うこと」
「残響も、
残響に触れた人も」
「すべて、“無かった”ことになる」
空間が、さらに冷たくなる。
「それで、あなたは平気?」
梓は答えない。
答えられない。
代わりに、問い返す。
「じゃあ、どうしろと?」
向こうの梓は、少し考える仕草をする。
「簡単だよ」
「壊れたものを
“直すんじゃなくて”」
「壊れたまま、
受け入れられるかどうかだ」
胸が重くなる。
「それができないなら」
「あなたは、ずっと修行して、
ずっと苦しんで、
ずっと誰かを削り続ける」
沈黙。
風も、音も、
ここにはもうない。
「……それでも」
梓は、目を閉じて言った。
「私は、直します」
「消すより、直すほうが
未来を残せるから」
「残響も世界の一部なら、
それを“整える”」
「それが、私の仕事で、
私の贖罪で、
私の選択です」
相手の梓が、
ゆっくりと笑った。
「いいね」
「やっと、
答えを持った」
「その答え、
きっと何度も壊れるけど」
「それでもいい?」
梓は頷く。
「壊れたものは、
また直します」
「…何度でも」
そのとき、
空間のこすれる音がした。
恐山の風。
硫黄の匂い。
現実の気配が降りてくる。
「そろそろ戻る時間だ」
向こうの梓が言う。
「今日は、負けなかったよ」
最後に、ひとことだけ残した。
「……あの人を救いたいなら」
「自分が壊れてることも
ちゃんと認めなきゃね」
視界が白く反転する。
意識が、
引き上げられる。
——
梓の指は、まだ八鍵に触れていた。
冷たくなっている。
恐山の風が、
髪を揺らす。
でも心の奥は、さっきより少しだけ、
静かだった。




