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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第28話 揺らぎ その1 縁を断つ者

 精神病棟は、昼でも夜でも同じ明るさだった。


 時間という概念を、ここでは意図的に曖昧にしている。

 患者が規則正しい生活を保てるように。


 だが、山口詩織(やまぐちしおり)には分かっていた。

 今は夜だ。


 光が静かすぎる。

 昼の光は、わずかにざわついている。

 人の活動の気配が混ざる。


 夜の光は、無音だ。


 廊下に看護師の姿はない。

 ナースステーションのモニターだけが淡く点いている。


 詩織はスリッパの音を立てないよう歩いた。

 逃げているわけではない。


 ただ、自分がどこにいるのか確かめたかった。


 自分が、まだ存在しているかを。


 ここ数日、奇妙な感覚があった。


 誰かの名前が思い出せない。

 大事なはずの何かが、指の隙間から落ちていく。


 落ちたことだけは分かる。

 だが、何が落ちたのか分からない。


 思い出そうとすると、吐き気がする。


 ナースステーションの前で足を止める。


 カルテの棚。


 自分の名前があるはずだ。


 山口詩織。


 そこに、自分がいた証拠がある。


 震える手で引き出しを開ける。


 ラベルをなぞる。


 山口。

 山口。

 山本。

 山崎。


 詩織は何度も棚を往復した。


 ない。


 もう一度見る。


 ない。


「何をしているのですか」


 背後から声がした。


 振り向く。


 畑中克彦(はたなかかつひこ)が立っていた。


 白衣は皺一つなく、

 疲れた様子もない。


 夜勤の医師にしては、整いすぎている。


「……私の、カルテが……」


「あなたの?」


 畑中は穏やかに首を傾げる。


「お名前は?」


 その問いは、奇妙だった。

 診察もしている主治医のはずなのに。


「山口……詩織……です」


 言葉が重い。

 自分の名前なのに、借り物のようだ。


 畑中はしばらく考えるように沈黙した。


 やがて、柔らかく微笑む。


「そのような患者さんはいませんよ」


 胸の奥が、音を立てて崩れた。


 冗談ではない。

 言い間違いでもない。


 確信している声だった。


「でも、私……ここに……」


「どこに?」


 詩織は振り返る。


 病室の並ぶ廊下。


 その一角だけ、暗い。


 照明が落ちている。


「私の部屋……」


「空室です」


 即答。


「長く使われていません」


 詩織は首を振る。


「違う……違う……」


 走り出す。


 暗い廊下の先へ。


 ドアを開ける。


 ベッドはある。

 シーツもある。

 だが、使用感がない。


 私物がない。

 衣類がない。

 本もない。


 人が暮らした痕跡がない。


「そんな……」


 壁に手をつく。


 冷たい。


 存在の手応えが、急速に希薄になる。


 背後で、足音が止まる。


「安心してください」


 畑中の声。


「あなたは苦しんでいません」


 詩織は振り向かない。


「苦しいです……!」


「いいえ」


 優しく否定される。


「苦しんでいるのは、“まだ在る部分”です」


 その言葉の意味が分からない。


 だが、理解したくない。


「あなたを苦しめるものは、すべて過去です」


 空気が歪む。


 視界が暗転する。


 次の瞬間。


 古いアパートの部屋に立っていた。


 カーテンは閉じられ、

 酒の匂いが染みついている。


 帰りたくなかった場所。


 父の家。


「やめて……」


 声が震える。


 ドアノブが回る。


 逃げる。


 台所へ。

 窓は開かない。


 浴室。

 鍵が壊れている。


 どこにも安全な場所がない。


 足音が近づく。


(消えたい)


 思考が漏れる。


(ここから消えたい)


 その瞬間。


 部屋が消えた。


 父も消えた。


 恐怖も消えた。


 何もない。


 静かで、痛みもない。


 完璧な無。


「これが、あなたの望みです」


 畑中の声だけが存在する。


 詩織は震える。


「違う……」


「過去は消えました」


「違う……!」


「苦しみはありません」


 確かにない。


 だが。


 自分も薄れている。


 腕が透けている。


 指が崩れていく。


「嫌……」


「なぜですか」


 静かな疑問。


「消えたかったのでは?」


 詩織は泣き叫ぶ。


「違う!怖いのが嫌なだけ!!」


「恐怖は過去です」


 その声には、わずかな興味が混じっていた。


「過去を消せば、あなたも消えます」


 胸が崩れる。


 呼吸が消える。


 存在の核が砕ける。


 その瞬間。


 詩織は理解した。


 自分は単体では存在できない。


 父への恐怖も、

 婚約者への愛情も、

 失敗の記憶も、

 全部が自分を形作っている。


 それを消したら。


 何も残らない。


「やめて…助けて……」


 だが、助ける者はすでにいない。


 縁はすべて断たれている。


「安心してください」


 声が近い。


「もう誰もあなたを覚えていません」


 それが最後だった。


 詩織の輪郭が静かにほどける。


 悲鳴はない。


 爆発もない。


 ただ、消える。


 最初から存在しなかったかのように。



 翌日。


 婚約者の男性が警察署を訪れた。


「彼女と連絡が取れないんです」


 事情聴取が始まる。


「お名前は?」


「山口……」


 言葉が止まる。


「……あれ?」


 頭を抱える。


「どうしました?」


「分からない……」


 心臓が早鐘を打つ。


 何かを失った。

 大事なものを。


 だが、何を?


「誰を探してるんだ……俺は……」


 涙が出る。


 理由が分からない。


 刑事たちは顔を見合わせる。


 精神的ショック。


 そう判断された。


「一度、医療機関へ」


 保護対象として、搬送が決まる。


 行き先は、近隣の精神科病院。


 畑中克彦の勤務先だった。



 診察室。


 畑中は穏やかに微笑む。


「大切な人を失ったのですね」


 男性は泣き崩れる。


「思い出せないんです……!」


「大丈夫です」


 優しく頷く。


「無理に思い出さなくてもいい」


 カルテにペンが走る。


 患者名:未定


 備考欄:


 ――縁あり


 畑中はゆっくり顔を上げる。


 鏡のように静かな目。


「あなたの苦しみも、消して差し上げます」

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