第27話 奪う者と狩る者 その3 食われていく輪郭
夜はまだ揺れている。
だが根石の中では、揺れはもう外側の現象にすぎなかった。
通行人の血が乾く前に、彼は歩いていた。
息は乱れていない。
手は震えない。
震えているのは、世界のほうだ。
《良い》
徳次郎の声が、愉悦を滲ませる。
《主はもう、迷わぬ》
「……うるせぇ!」
そう言ったはずだ。
だが声が遠い。
口が動く感覚が、わずかに遅れる。
視界の端で、スマートフォンを向ける若者がいた。
「やべぇ、あいつ……!」
指を差される。
笑い声。
怯え。
根石の胸に熱が走る。
《殺せ》
今度ははっきり聞こえた。
命令ではない。
期待だ。
根石は走る。
若者は逃げる。
転ぶ。
根石の足が、その背中を踏みつける。
「や、やめ――」
言葉は途中で潰れる。
骨の砕ける音。
徳次郎が、はっきりと笑った。
《見よ》
根石の視界が一瞬、引く。
自分が上から見える。
男を踏みつける自分。
赤い染み。
倒れた身体。
映画のワンシーンのようだ。
痛みも、罪悪感もない。
ただ、映像。
「……俺がやってる」
確認のように呟く。
《もちろんだ、主》
徳次郎は優しく返す。
《主が望んだのだ》
根石は笑う。
だが笑いの感覚が、口元だけで止まる。
感情が胸に届かない。
民家の玄関を蹴破る。
悲鳴。
家族三人。
父親が立ち向かう。
包丁。
根石はそれを奪い取る。
《遅い》
徳次郎が評価する。
《腕を先に斬れ》
包丁が振るわれる。
血が壁に飛ぶ。
母親の叫び。
子どもの泣き声。
根石は、まるでカメラを持った観客のように見ている。
自分の腕が動く。
自分の足が踏み込む。
喉が裂ける音。
床に崩れる身体。
徳次郎は、嬉しそうに語り始める。
《首はここだ》
《刃を滑らせるな》
《骨の角度を見よ》
まるで弟子に教えるように。
丁寧に。
愛情すら滲ませて。
子どもが震えながら後ずさる。
根石の視界が、また引く。
遠い。
映画だ。
他人の人生だ。
血が自分の頬に飛ぶ。
温かい。
だが、その温度すら他人事だ。
《主は器だ》
徳次郎が、静かに言う。
《良い器だ》
根石の胸の奥で、何かが崩れる。
自分の名前が、一瞬、思い出せない。
骨董品店。
扉を蹴破る。
店主が振り返る。
棚に並ぶ日本刀。
震える手。
「やめてくれ……」
その声を、根石は“音”としてしか認識しない。
刀を掴む。
抜く。
重さが心地いい。
《それだ》
徳次郎が息を飲む。
《主、構えろ》
根石の身体が、自然に動く。
足幅。
握り。
角度。
知らない動きなのに、知っている。
斬る。
空気が裂ける。
店主の身体が、ゆっくり崩れる。
《見よ》
徳次郎が、愉悦に震える。
《美しい!》
血が床を染める。
根石は、遠くからそれを見る。
自分の手に付いた血を見つめる。
「……俺なのか!?」
その問いに、徳次郎は答えない。
《主は主だ》
だが声は近い。
近すぎる。
視界の端に、もう一つの輪郭がはっきり映る。
刀を持つ男。
着物。
濁らぬ目。
笑っている。
根石の身体が揺れる。
立っている感覚が薄い。
足の裏の重みが消える。
自分が喋っている。
だが声は、少し違う。
《主は半分だ》
徳次郎が、楽しげに告げる。
《もうすぐだ》
根石の思考が、霧の中に沈む。
怒りも、興奮も、快楽も。
全部が混ざる。
何が自分で、何が他人か。
境界が曖昧になる。
鏡に映る自分の顔。
そこに、一瞬だけ知らない笑みが浮かぶ。
《良い》
徳次郎は満足する。
《主はもう、よく熟れた》
根石の輪郭が、内側から削れていく。
声が二重になる。
足取りが軽い。
呼吸が揃う。
夜の街を歩く二つの影が、ゆっくりと重なる。
根石は、まだ自分だと思っている。
だが。
もう半分は、
斬ることだけを愉しむ男だった。
次に斬る相手を探しながら、
根石の瞳は、わずかに濁り始めていた。




