第27話 奪う者と狩る者 その2 崩落と選択
夜はまだ揺れていた。
余震が、規則を失った心臓のように街を打つ。
根石健光は塀を越え、崩れた建物の影に身を隠していた。
刑務所は半壊。
通信は途絶。
サイレンは鳴り止まない。
逃げるには、これ以上ない状況だった。
だが――
息が、やけに静かだ。
普通なら恐怖が来る。
焦燥が来る。
だが胸の奥は、妙に凪いでいる。
《主は震えていないな》
徳次郎の声が、滑らかに流れる。
「慣れてるからな!」
根石は吐き捨てる。
追われる感覚。
殺す直前の静けさ。
似ている。
《違う》
徳次郎は淡々と否定する。
《これは狩りの前の静寂だ》
その言葉に、根石の背筋が微かに粟立つ。
「……狩るのは俺だ」
《そうだ》
だが、その肯定はどこか薄い。
足元に倒れている看守の腕が動いた。
まだ生きている。
目が合う。
恐怖。
助けを求める視線。
根石の中で、何かが弾ける。
《殺せ》
囁きは静かだった。
《主は強い》
徳次郎は命令しない。
ただ、可能性を示す。
根石の手が、自然に動く。
拾った鉄パイプ。
振り下ろす。
鈍い音。
血が飛ぶ。
骨が砕ける。
呼吸が止まる。
根石は荒く息を吐いた。
「……はは」
笑ったつもりだった。
だが声が、どこか遠い。
《粗い》
徳次郎は評する。
《だが悪くない》
その瞬間。
根石の視界が、ほんの一瞬だけ遅れた。
自分の腕が動くのを、
“あとから”見ているような感覚。
違和感はすぐに消える。
余震がまた来た。
街の方から、叫び声が上がる。
崩れた商店街。
停電。
混乱。
根石は歩き出す。
「……行くぞ」
そう口にした。
だが足は、街の中心へ向かっている。
《良い》
徳次郎は、満足げだ。
《逃げるとは、奪うことだ》
意味が分からない。
だが否定する気も起きない。
崩れた信号機の下で、
通行人が根石を指差した。
「……あれ、ニュースで」
地震速報のテロップ。
刑務所の混乱。
死刑囚の行方不明。
ざわめき。
その視線が、根石の胸に刺さる。
逃亡犯。
指差される。
追われる側。
怒りが爆発する。
《主は侮られた》
徳次郎の声が、柔らかく響く。
《どうする》
「……殺す!」
短い答え。
徳次郎は笑わない。
《そうだ》
その瞬間。
根石の輪郭が、また一段、薄くなった。
自分で決めている。
そう思っている。
だが。
“決断の重み”がない。
行動だけが、先にある。
走る。
悲鳴。
殴打。
血。
倒れる身体。
息切れはしない。
鼓動は早いのに、
恐怖がない。
《主は自由だ》
徳次郎の声が、どこか楽しげになる。
《もっとだ》
根石は、笑う。
だがその笑みは、
少しずつ“誰かのもの”に近づいていた。
崩れた街灯の下で、
根石の影が二重に揺れる。
一つは根石。
もう一つは、刀を持った男の形。
まだ重なっていない。
だが確実に、
境界は削れている。
逃亡は始まった。
だが本当の意味での“脱出”は、
もう不可能だった。
根石は知らない。
自分の選択が、
すでに半分、他人のものになっていることを。
徳次郎はまだ急がない。
急ぐ必要がない。
器は、自分から崩れ始めているのだから。




