第26話 進歩は祈らない その5 修正不能領域に触れた日
現実世界へ戻った瞬間、
真名井梓は膝をついた。
アスファルトが冷たい。
震災後の街に残る、埃とコンクリートの匂い。
呼吸は乱れていない。
身体にも、目立った外傷はない。
それでも――
胃の奥が、重く沈んでいた。
(……消えました)
確かに、残響は消失した。
だが、それは祓われたのではない。
持っていかれた。
梓はゆっくりと立ち上がり、
八鍵を仕舞う。
量子暗号札を一枚ずつ回収しながら、
頭の中で状況を整理する。
杉田玄白の残響。
人為的に作られた連鎖。
疫鬼という能力。
――そして、黒いドレスの少女。
「……」
胸元が、わずかに冷えた気がした。
あの翡翠。
吸収の後、確かに色が変わっていた。
(……蓄積)
残響を終わらせているのではない。
“保存”している。
その意味を、
まだ言葉にできなかった。
⸻
少し離れた場所で、
高峰修一が通話を終えた。
「……ああ。分かった」
携帯を下ろし、
梓を見る。
「現場の異常反応、完全に消えた」
「被害者は……?」
「痕跡ごと、残ってない」
一瞬だけ間を置き、
高峰は続けた。
「“被害”そのものが、
最初から存在しなかった扱いだ」
梓は目を伏せる。
(……上書き)
「……妙だな」
高峰が、低く唸る。
「前も似た後味だったが、
今回はもっと“きれい”だ」
「誰かが、整理しています」
梓は、静かに答えた。
「整理?」
「はい。
世界の歪みを消すのではなく、
回収している存在がいます」
高峰は眉をひそめた。
「敵か?」
「分かりません」
正直な答えだった。
「少なくとも、
私たちとは目的が違います」
高峰は煙草を取り出し、
火をつけた。
「……面倒な話だ」
煙を吐き出す。
「修正屋とは別に、
残響を“集める側”が出てきた」
それは、警察の理解を超えている。
「梓」
「はい」
「これはもう、
事件じゃなくなり始めてる」
梓は否定しなかった。
⸻
その頃。
街の外れ。
人の気配が、完全に途切れた場所。
黒いドレスの少女が、
一人で立っていた。
胸元の翡翠は、
わずかに濁りを帯びている。
赤い瞳が、楽しげに細められた。
「……いっぱい」
誰に向けた言葉でもない。
鎌を布袋に収め、
夜空を見上げる。
「でも、まだ足りない」
残響は、知らないおもちゃ。
強いほど、
壊れにくいほど、面白い。
「次は……」
首を小さく傾げる。
「もっと、すごいのがいいな」
彼女は、
何も間違ったことをしているとは思っていなかった。
欲しいから取った。
ただ、それだけ。
それが、
彼女の世界の理屈だった。
⸻
夜。
中森安行の事務所。
報告を聞き終え、
中森はしばらく黙っていた。
「……吸収したか」
低い声で、そう呟く。
「厄介だな」
「ご存じなんですか」
梓の問いに、
中森は視線を逸らす。
「噂程度だ」
軽く言い切る。
「残響と“別のやり方”で関わる連中がいる、って話はな」
「共存、ですか」
中森は、鼻で笑った。
「……そう聞こえるように、
言ってる奴らもいる」
一拍。
「だが、あれは違う」
「……」
「飼ってる」
言葉を、選ばなかった。
「集めて、
閉じ込めて、
眺めてるだけだ」
梓の指先が、
無意識に強張る。
「……私は、修正します」
静かだが、揺るがない声。
「世界を壊さないために」
中森は、小さく笑った。
「だろうな」
だが、その表情には
確かな不安が滲んでいた。
「ただな」
一呼吸。
「向こうは、
世界を“集めてる”」
「修正じゃ、
追いつかねぇ可能性もある」
梓は答えなかった。
ただ、
八鍵に触れる。
(……それでも)
(……私は、修正する)
それしか、
選べないから。




