第26話 進歩は祈らない その4 正しさは、解剖台の上で笑う
空間が、整いすぎていた。
残響空間に足を踏み入れた瞬間、
真名井梓は、はっきりとした違和感を覚えた。
崩壊の臭いがない。
歪みは存在するが、暴走していない。
――管理されていますね。
瓦礫は無秩序に散らばっていない。
壁際に寄せられた遺留品。
中央に集められた人影。
どれもが、
「観測対象」として配置されていた。
八鍵を構え、梓は慎重に歩を進める。
被害者たちは静かだった。
苦悶も錯乱もない。
ただ、立っている。
次の処置を待つ検体のように。
「……これは」
量子暗号札を一枚、起動する。
「解析系・小」
札が淡く光り、
空間構造が数値と位相として流れ込む。
(……人工的)
その結論に至った瞬間、
落ち着いた声が響いた。
「やはり、君は早い」
前方に、人影が現れる。
男だった。
和装だが時代が定まらない。
背筋は伸び、目に濁りがない。
――理性がある。
「あなたが、この現象を?」
梓は敬語を崩さない。
男は穏やかに頷いた。
「そうだ。
私は、彼らを前進させている」
「……前進、ですか」
「死は終わりではない」
男は、並べられた人影を見渡す。
「思念は残る。
ならば、それを次の段階へ進めるのは、
人として自然な探究だろう?」
梓の背筋に、冷たいものが走る。
「あなたは、生きている人間を侵食しています」
「副作用だ」
即答だった。
「制御が甘かった」
その言葉に、迷いはない。
「初期段階では、
自我の調整が難しかった」
男は淡々と続ける。
「小川哲也、徳橋聖和、森川恵美…」
名前が、静かに並べられた。
「病虫への耐性が想定以上に高く、
自我が肥大化した」
――失敗作。
「彼らは、
自分を“個”として保ちすぎた」
梓は息を詰めた。
「……それで、あの結果に」
「そうだ」
男は認めた。
「救済の意志が、
執着に変わった」
だが――
「現在は、改善している」
男は胸を張る。
「自我を薄め、
存在を現象として扱う」
その瞬間、
すべてが繋がった。
「……復旧に紛れた拡散」
「理解が早い」
男は満足そうに微笑んだ。
「私は人類の進歩を止めない」
「……お名前を」
一拍置いて、男は答えた。
「杉田玄白」
知の名。
理性の象徴。
「私は、疫鬼として進化した。
病虫を使い人の進化を見届けるために」
その瞬間――
空間が、切り取られた。
金属が空を裂く音。
杉田玄白が振り返る。
そこにいたのは、
黒いドレスの少女だった。
長い黒髪。
赤い瞳。
年齢は判別できない。
だが視線だけが、異様に幼い。
「……誰だ、君は」
少女は答えない。
代わりに、
大鎌を持ち上げた。
「待て……!」
玄白の声に、初めて焦りが混じる。
「私は正しい!
私は人を救って――」
鎌が振るわれた。
斬るためではない。
絡め取るための動き。
空間そのものが、
玄白の輪郭を剥がし始める。
「……何を、している……!」
玄白の身体から、
赤黒い光が引きずり出される。
思念。
記憶。
理論。
善意。
すべてが、
少女の胸元へ吸い寄せられていく。
「やめろ……!」
声が、震え始める。
「私は正しい……!
私は進歩を――!」
少女は、首を傾げた。
「うん」
感情のない声。
「だから、欲しい」
鎌が、さらに深く絡みつく。
玄白は必死に抗う。
知性で否定し、理論で拒絶する。
だが、
吸収は対話ではない。
玄白の声が、壊れた。
「……私は……救って……」
言葉は、途中で消えた。
赤い光が、
翡翠へと流れ込む。
翡翠が、わずかに濁る。
少女は、小さく息を吐いた。
「おしまい」
静寂。
被害者たちは、
一人、また一人と消えていく。
梓は、その光景を見つめていた。
「……あなたは、誰ですか」
少女は初めて梓を見る。
赤い瞳が、
興味の色に変わる。
「私?」
少し考えてから答えた。
「平山愛音」
そして、無邪気に言う。
「修正屋さん。
次は、あなたのお仕事?」
そう言い残し、
少女は空間の裂け目へ消えた。
残されたのは、
異様に整った静けさ。
梓は八鍵を強く握る。
(……今のは)
修正ではない。
滅殺でもない。
捕食。
このとき、梓はまだ知らない。
平山愛音という存在が、
残響にとって
死よりも恐ろしい“終わり”であることを。
そして――
進歩を名乗る正しさほど、
残酷なものはないということを。




