第26話 進歩は祈らない その3 被害者として、扱う理由
真名井梓は、復旧途中の通りを歩いていた。
地震から二か月。
瓦礫は撤去され、仮設の街灯が夜を照らしている。
昼間は人の往来も戻りつつあり、
表面だけを見れば、街は「日常」に近づいていた。
――近づいているだけ。
足元で、アスファルトがかすかに軋む。
ひび割れたはずの舗装が、
不自然なほど滑らかに繋がっている。
「……復旧、ですか」
梓は足を止め、小型のイヤーカフに触れた。
ノイズ混じりの反応が、耳の奥で微かに震える。
量子暗号札を一枚、
コートの内側から取り出す。
札の幾何学模様が、
街灯の光を受けて、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「行政システムの復旧ログと……同調していますね」
独り言は、自然と敬語になる。
誰に向けたものでもない。
ここは、
“生存している”と記録された人物が
生活しているはずの区域だった。
だが、生活の気配が薄い。
洗濯物は干されていない。
郵便受けは空。
コンビニの防犯カメラには人影が映るが、
店員の記憶に、その人物は残っていない。
「……徳橋聖和のときと、構造は似ています」
梓は歩きながら、淡々と整理する。
徳橋の残響は、
明確な意志を持っていた。
戻りたい。
取り戻したい。
生きていた場所へ。
だから、
被害者は“怯えて”いた。
だが今回は違う。
「……戻る意志が、ありません」
足音が、背後でひとつ重なった。
振り返る。
誰もいない。
それでも、
“何かがいた”という感触だけが残る。
梓は量子暗号札を二枚、指の間に挟んだ。
「遮断系・小」
小さく、しかし明確に祓詞を発声する。
空気が一瞬だけ硬直し、
周囲の環境音が遠ざかる。
世界が、ほんの少しだけズレた。
「……いましたね」
視線の先。
街灯の下。
人影が、立っている。
はっきりとした輪郭はない。
だが、
現実に貼り付いたような“存在感”だけがある。
恐怖を煽る姿ではない。
異形でも、敵意でもない。
むしろ――
普通だった。
「……被害者、ですね」
梓は距離を保ったまま、そう判断した。
逃げない。
襲わない。
助けを求める様子もない。
ただ、
“そこにいる”。
「あなたは、
自分が危険だと、思っていません」
語りかけるように、
だが一歩も近づかない。
「……だからこそ、危険です」
徳橋のとき、
被害者は救われたと思った瞬間に、
侵食が始まった。
今回は、
その段階すら越えている。
量子暗号札が、はっきりと震えた。
「……侵食、進行中」
誰かが取り込まれているわけではない。
逆だ。
「存在そのものが、
周囲に滲んでいます……」
生存者。
復旧作業員。
帰宅途中の住民。
無意識のうちに、
“影響”を受け始めている。
だが――
梓は、八鍵を取り出さなかった。
今ではない。
ここで残響世界に踏み込めば、
“現象”はさらに拡散する。
「被害者として、扱います」
その判断に、迷いはなかった。
徳橋のときと同じ。
だが、意味は違う。
「今回は……
守った“後”が、本番ですね」
札を静かに戻し、
梓は街を見渡す。
この存在は、
救われたと思っている。
だからこそ、
次の段階が最も危険になる。
「……必ず、修正します」
誰に聞かせるでもなく、
梓はそう告げた。
その背後で、
街灯がひとつ、
音もなく消えた。
復旧されるはずのないものが、
確実に、
次の段階へ進み始めていた。




