第26話 進歩は祈らない その1 死んでも終わらない身体
最初に違和感を覚えたのは、
痛みがなかったことだった。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
喉の奥が焼けるように熱い。
――それなのに、痛くない。
おかしい、と思った瞬間には、
すでに身体は床に横たわっていた。
天井が近い。
見慣れない白い染み。
蛍光灯の光が、やけに静かだ。
(……倒れた?)
そう考えた途端、
身体が“動かない”ことに気づいた。
手も足も、感覚がある。
触られている感触も分かる。
だが、命令が届かない。
声を出そうとすると、
喉の奥で空気が震えただけだった。
誰かがいる。
白衣の影。
忙しなく行き交う足音。
「……呼吸、止まりました」
その言葉が、
まるで自分とは関係のない話のように聞こえた。
(……え?)
否定しようとした。
まだ考えている。
まだ見えている。
まだ――ここにいる。
なのに、
誰もこちらを見ない。
カーテンが引かれ、
音が遠のいた。
そこで、ようやく理解した。
(……あ、私)
(……死んだんだ)
妙なことに、
恐怖はなかった。
涙も出ない。
焦りもない。
ただ、
終わったという実感だけがあった。
――はずだった。
⸻
最初の“変化”は、
腹の奥の重さだった。
胃のあたりが、
内側からゆっくり押し広げられる。
食べ過ぎたような感覚。
だが、食事なんてしていない。
(……何、これ)
意識を向けると、
皮膚の内側で“何か”が動いた。
腸でも、臓器でもない。
もっと細かい。
もっと――数が多い。
ぞわり、と寒気が走る。
動く。
這う。
増える。
皮膚の下を、
無数の何かが移動している。
(……やだ……)
声にならない悲鳴が、
胸の内側で弾けた。
その瞬間、
視界が切り替わった。
⸻
気づけば、
自分は自宅のベッドに横たわっていた。
カーテン越しの朝の光。
スマートフォンの振動。
(……夢?)
そう思った瞬間、
腹の中で“それ”が、はっきりと蠢いた。
夢じゃない。
起き上がろうとして、
身体が軽すぎることに気づく。
重さがない。
血の流れも、脈も感じない。
それなのに、
腹の内側だけが、異様に生々しい。
スマートフォンを見る。
日付は、
自分が死んだ日の翌日。
通知が一件。
《体調どう?》
誰からか分からないメッセージ。
指が勝手に動いた。
《大丈夫》
送信してから、
ぞっとした。
(……誰が?)
自分は、もう――
その瞬間、
腹の内側で“何か”が弾けた。
ぴち、と湿った音。
皮膚の下で、
新しい“脈”が打ち始める。
(……やめて)
(……入らないで)
願いとは裏腹に、
身体は“馴染んでいく”。
異物が、
自分の一部になっていく。
そのとき、
どこからか声が聞こえた。
穏やかで、
落ち着いた声。
「順調ですね」
「反応も良い」
「やはり、死後のほうが安定する」
それは、
医師のようでもあり、
研究者のようでもあった。
(……誰……?)
問いかけに、返事はない。
代わりに、
腹の中の“それ”が応えた。
ぞわぞわと、
喜ぶように、広がっていく。
理解した。
自分は――
まだ終わっていない。
死んだあとも、
“使われている”。
逃げられない。
拒めない。
身体は、もう自分のものじゃない。
それでも意識だけは残されて、
変わっていく内側を
全部、見せられている。
最後に浮かんだ感情は、
恐怖ではなかった。
後悔だった。
(……ちゃんと、死にたかった)
その願いすら、
この世界は許してくれなかった。




