第25話 復旧されるはずのない人間 その1 追いつかなければならない
走っているはずなのに、足音がしない。
徳橋聖和は、そのことに気づいた瞬間、
意識的に呼吸を荒くした。
息が乱れていないのはおかしい。
息が上がらないのは、もっとおかしい。
だから、わざと肺を使う。
胸を広げ、空気を取り込む。
(……そうだ、走ってる)
確認するための行為だった。
夜の住宅街は、地震の爪痕をまだ抱えている。
ひび割れたアスファルト。
傾いたブロック塀。
ブルーシートに覆われた家。
だが、不思議なほど静かだった。
犬の声がない。
テレビの音がない。
遠くの幹線道路の騒音すら、薄い。
その中を、彼女が走っている。
森川恵美。
徳橋の視界の先で、
街灯の明かりを縫うように逃げている。
(……待て)
声に出したつもりだった。
だが、音にならない。
喉が震えた感覚だけが残る。
(どうして、逃げる)
徳橋は困惑していた。
怒ってはいない。
憎んでもいない。
ただ、分からない。
地震のあと、
やっと見つけたのに。
やっと、
一緒にいられると思ったのに。
「……恵美」
名前を呼ぶ。
今度は、かすかに声になった。
だが、彼女は振り返らない。
むしろ、速度を上げる。
靴音が、ばたつく。
呼吸が乱れる。
生きている音だ。
その音を聞いて、
徳橋の胸の奥が、ひどくざわついた。
(……違う)
違和感。
なぜだか分からないが、
彼女の「生きている感じ」が、
妙に遠い。
まるで、
ガラス越しに見ているような。
徳橋は歩道橋の下をくぐった。
照明が切れている。
影が濃い。
そこで、一瞬だけ距離が詰まった。
伸ばせば、触れられる。
(……捕まえないと)
理由は説明できない。
ただ、
そうしなければならない
という感覚だけがあった。
徳橋は手を伸ばした。
——届かない。
距離は確実に縮んでいるのに、
触れられない。
まるで、
世界の側が彼を避けている。
「……なんで……」
今度は、はっきり声が出た。
だが、
その声に反応したのは彼女ではなかった。
通りの端にいた中年の男が、
怪訝そうにこちらを見る。
徳橋は、その視線に安心した。
(見えてる)
だが、男はすぐに視線を逸らした。
いや、
徳橋ではなく、
何もない場所から目を離した
という動きだった。
(……?)
胸の奥が、少しだけ冷える。
だが、今はそれどころじゃない。
恵美が、角を曲がった。
徳橋も続く。
路地。
瓦礫。
仮設フェンス。
恵美は、息を切らして立ち止まった。
壁に手をつき、
肩で呼吸をしている。
「……お願い……」
震えた声。
「来ないで……」
その言葉が、
徳橋の思考を一瞬、止めた。
(……来ないで?)
「どうして」
近づこうとすると、
彼女が後ずさる。
目が合った。
恐怖。
そこにあるのは、
紛れもない恐怖だった。
徳橋は、初めて気づく。
——自分は、
彼女にとって
“安心できる存在”ではない。
「……違う」
否定の言葉が、
反射的に出た。
「俺だ」
名乗ろうとした。
だが、
名前が出てこない。
口を開いたまま、
音が落ちる。
「……お願い……」
恵美は、スマートフォンを取り出した。
手が震えている。
「警察に……連絡するから……」
警察。
その単語を聞いた瞬間、
徳橋の頭に
白いノイズが走った。
サイレン。
光。
冷たい床。
——断片。
理由は分からない。
だが、本能が告げる。
それは、困る。
(……違う)
彼は、必死に考える。
自分は、
彼女を傷つけたいわけじゃない。
ただ——
(……一緒に、いなきゃ)
そうでなければならない。
なぜなら、
彼女がいなくなったら、
自分は——
思考が、そこで途切れた。
恵美が、走り出す。
徳橋は追う。
だが、
距離は再び開いた。
街灯が揺れる。
視界が歪む。
彼女の背中が、
やけに眩しく見えた。
生きている証。
徳橋は、
その光を掴もうとする。
掴めば、
安心できる気がした。
——だが。
彼女が角を曲がった瞬間、
世界が、ほんの一瞬、
書き換わった。
周囲の音が戻る。
遠くの車。
誰かの話し声。
現実が、
唐突に厚みを取り戻す。
徳橋は立ち止まった。
路地の先に、
恵美はいない。
ただ、
落ちたスマートフォンだけが
地面に転がっている。
徳橋は、それを見下ろした。
拾おうとして、
手がすり抜ける。
(……?)
二度、三度。
触れられない。
そのとき、
背後で足音がした。
振り返る。
——誰もいない。
だが、
確かに「いた」。
徳橋は、
自分の胸に手を当てた。
心臓の位置が、
よく分からない。
鼓動も、
感じられない。
代わりに、
胸の奥で、
低い音が鳴っている。
——更新中
どこからか、
そんな感覚が流れ込む。
徳橋は、
ゆっくりと顔を上げた。
(……まだ)
(……終わってない)
彼女を、
取り戻さなければならない。
そうでなければ、
自分は完成しない。
徳橋聖和は、
再び歩き出した。
街は、
何事もなかったように
夜を続けている。
その中で、
復旧されるはずのない存在が、
確かに、
歩いていた。




