第24話 職務に殉ずる者 その4 敬礼の行き先
残響空間は、奇妙に整然としていた。
瓦礫は瓦礫のまま。
救援灯は救援灯のまま。
だが、すべてが「止まっている」。
時間が止まったわけじゃない。
判断だけが凍結されている。
そこに立つ男――小川哲也は、現実の姿とほとんど変わらなかった。
制服も、表情も、姿勢も。
ただひとつ違うのは、影だ。
彼の影は、地面に落ちていない。
代わりに、無数の線となって周囲に伸び、瓦礫の隙間、崩れた建物の奥、暗がりのすべてに絡みついている。
それは人を捕らえる影ではない。
守ろうとする影だった。
《……これは、俺なのか?》
小川は自分の影を見下ろし、低く呟いた。
梓は否定しなかった。
「はい。あなたの判断と責任が、世界に残ったものです」
小川は一瞬、笑った。
《皮肉だな。
生きてる時より、よく見えてる》
その直後だった。
空間が、軋んだ。
影の一本が、過剰に伸びる。
救援灯が揺れ、瓦礫の奥から悲鳴が反響する。
小隊の誰かだ。
現実世界で、限界を超えた。
《……!》
小川の表情が一変した。
《止まれ……!》
彼は影を引き戻そうとした。
だが、もう制御できない。
残響は、善意だけで構成されている。
だからこそ、制限がない。
《まだだ……!
まだ終わってない……!》
声に、怒気が混じる。
それは他者に向けた怒りではない。
自分が止まれないことへの怒りだった。
《俺がいなくなったら、誰が判断する……!》
梓の足元で、量子暗号札が音もなく割れた。
(……侵食臨界)
梓は、八鍵を構える。
「小川さん」
名前を呼ぶ。
「あなたは、もう指揮官じゃありません」
その言葉が、決定打だった。
《違う!!》
小川が叫ぶ。
《俺は――
俺がここにいる限り、誰も死なせない!》
影が、一斉に跳ね上がる。
残響が、牙を剥いた。
だがその瞬間、梓は見た。
影の奥。
瓦礫の向こう。
小川の小隊が、こちらを見ている。
残響空間に巻き込まれかけた隊員たちの姿が、揺らぎながら立っていた。
疲弊しきった顔。
それでも、立とうとする姿。
「……隊長」
誰かが、呼んだ。
その声は、現実から漏れたものだった。
小川の動きが、止まる。
《……お前たち……》
声が、掠れる。
影が、震える。
《俺は……
お前たちを、守れているか……?》
その問いに、誰も答えない。
答えられない。
それが、答えだった。
小川は、ゆっくりと肩を落とした。
《……そうか》
怒りが、霧散する。
残ったのは、疲労だった。
《俺は……
もう、判断できてない》
梓は、一歩近づいた。
「それに気づいたから、あなたはここに留まった」
《……》
「でも」
梓は、祓詞の入力を開始する。
「留まり続けることは、守ることじゃありません」
小川は、目を閉じた。
《……俺は、どうすればいい》
梓は、はっきり答えた。
「任せてください」
祓詞が、空間に響く。
「……中和・整調」
削除ではない。
小川の影が、ゆっくりと解けていく。
絡みついていた線が、一本ずつ外れ、地面へ沈む。
残響空間が、揺らぐ。
《……すまなかった》
小川が、梓を見る。
《俺は……
最後まで、指揮官でいたかった》
「ええ」
梓は頷く。
「だから、ここまで来ました」
小川は、背筋を伸ばした。
敬礼。
それは残響としての動作ではない。
自衛官としての、最後の動きだった。
現実世界。
瓦礫の前で、小隊の隊員たちが、同時に立ち止まった。
理由は分からない。
だが、身体がそう動いた。
全員が、敬礼した。
誰に向けたのかも分からないまま。
その瞬間、救援灯がひとつ、静かに消えた。
残響空間で、小川哲也は微笑んだ。
《……頼んだ》
次の瞬間、彼の姿は霧のようにほどけ、光の粒となって消えた。
残響は、完全に修正された。
梓は、八鍵を下ろした。
息を吐く。
「……お疲れさまでした」
誰にともなく、そう呟いた。
残響空間が崩れ、現実が戻る。
瓦礫の音。
重機の唸り。
人の声。
世界は、何事もなかったかのように動き続けている。
だが、梓は知っていた。
今日、この場所で、
確かに一人の指揮官が、役目を終えたことを。
そして——
正しい善意ほど、修正が難しいという事実を。




