第3話 眼球コレクター事件 第3章 見ているものの正体
現場の空気は、すでに正常ではなかった。
高峰が規制線の内側へ踏み込んだ瞬間、微かな違和感が足元を撫でた。風はある。人の動きもある。だが、どこか“噛み合っていない”。現実の歯車が、一枚だけずれているような感覚だった。
「……遅かったな」
低く呟く。
その声に答えるように、背後から足音がした。
「いいえ」
振り返る前に分かる。
「まだ、途中です」
真名井梓が立っていた。黒いスーツ、右耳のイヤーカフ、手には八鍵。視線はすでに現場ではなく、その“奥”を見ている。
「状況は」
「侵入済みです」
即答だった。
「対象は外部に存在していません。すでに、内部で増殖しています」
「……内部ってのは」
「被害者です」
短く言い切る。
「正確には、“視覚系統”です。左目を起点に、認識を書き換えています」
高峰は、倒れている遺体を見る。
「だから左目だけか」
「はい」
梓はゆっくりと歩き出した。遺体のそばにしゃがみ込み、顔を確認する。触れない。だが距離を詰めることで、何かを測っている。
「……まだ残っています」
「何が」
「視線です」
その言葉と同時に、高峰の背中を冷たいものが走った。
見られている。
今この場で。
誰かが。
だが視線の主は特定できない。周囲には警官、鑑識、野次馬がいる。全員が普通に動いている。だが、その中に“違うもの”が混じっている。
「どこにいる」
「特定はできません」
梓は立ち上がった。
「まだ固定されていません。“誰でもいい”状態です」
それは、最悪の条件だった。
対象が限定されていない。つまり、この場にいる全員が候補になる。
「……全員、可能性ありか」
「はい」
短い肯定。
「ただし——兆候は出ています」
梓の視線が、一点で止まる。
高峰も追う。
若い警官だった。規制線の端に立ち、メモを取っている。何の変哲もない。だが。
その警官が、顔を上げた。
目が合う。
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
左目だけが、違う方向を見ていた。
次の瞬間には戻る。
だが、見間違いではない。
「……あいつか」
「まだです」
梓は否定した。
「“なりかけ”です」
その言い方が、嫌に現実的だった。
完全に取り込まれているわけではない。だが、侵入はされている。時間の問題。
そのとき。
警官が、手を止めた。
ペンが床に落ちる。
拾わない。
そのまま、ゆっくりと顔を上げる。
視線が——固定される。
誰もいない方向に。
だが。
“そこに何かがいる”と分かる。
「……おい」
高峰が声をかける。
反応がない。
警官の口が、わずかに開く。
《見えているだろう》
声は出ていない。
だが、意味が伝わる。
その場にいた数人が、一斉に顔を上げた。今の言葉を、理解してしまった者たち。
「下がれ!」
高峰が怒鳴る。
だが遅い。
警官の身体が、わずかに揺れる。
左目が、異様に開く。
焦点が合っていない。
いや——
“別のものに合っている”。
梓が動いた。
八鍵を構える。
「——遮断・微断」
青い光が走る。
空間を横切り、警官の身体へ絡みつくように収束する。
一瞬。
動きが止まる。
呼吸が戻る。
視線が揺れる。
だが——
その次の瞬間。
“別の視線”が上書きする。
《同じだ》
《同じ目だ》
警官の口が、ゆっくりと歪む。
自分の意思ではない。
表情が、外側から操作されている。
「……くそ」
高峰が舌打ちする。
「効いてないのか」
「効いています」
梓は即答した。
「ですが、対象が単一ではありません」
八鍵を握る手に、わずかに力が入る。
「外側にある残響を遮断しても、内部で生成されている“視点”は止まりません」
「……内部生成」
「はい」
梓の声が低くなる。
「被害者の中に、“もう一つの観測者”が生まれています」
それはつまり。
寄生ではない。
侵食でもない。
“増殖”だ。
警官の身体が、ぐらりと揺れる。
足が一歩前に出る。
その動きが、不自然に遅れる。
腕が半拍ずれる。
身体が、噛み合っていない。
高峰は理解した。
これは——時間のズレではない。
視点のズレだ。
複数の“見え方”が、同時に存在している。
その瞬間。
警官の左目から、涙が流れた。
だが、表情は笑っている。
《いいだろう》
《見せてやる》
その言葉と同時に。
警官の視線が、こちらを向いた。
正確には——
“こちらの左目”を見た。
高峰の身体が硬直する。
視界の奥で、何かが動く。
暗い部屋。
床。
血。
這う音。
近づいてくる。
顔が上がる。
目が合う。
同時に。
自分の左目が、熱を持つ。
「……っ!」
高峰は反射的に目を逸らした。
逸らした瞬間、その感覚は消える。
だが——
遅かった。
「警部補」
梓の声。
「見ましたね」
断定だった。
「……ああ」
短く答える。
否定しても意味がない。
あれは見てはいけないものだった。
だが、見てしまった。
「侵入が始まっています」
静かな宣告。
「まだ浅いですが、このまま接触を続ければ——同じ状態になります」
高峰は息を吐いた。
「つまり、時間制限付きか」
「はい」
梓は頷いた。
「この場にいる限り、全員が対象になります」
そのとき。
警官の身体が、大きく揺れた。
膝が崩れる。
倒れる。
だが。
地面に触れる直前で、止まる。
何かに支えられている。
見えない“視線”に。
《まだだ》
《まだ終わらない》
その声が響いた瞬間。
現場の空気が、一段深く沈んだ。
高峰は理解した。
これはもう、個人の事件じゃない。
広がる。
増える。
視線が、次の対象を探している。
梓が、八鍵を構え直す。
「……通常の祓詞では、間に合いません」
その一言で、状況は決定的だった。
“止められない”。
少なくとも、このままでは。
警官の身体が、ゆっくりと持ち上がる。
視線が固定される。
口が開く。
次の言葉が出る前に。
梓は、わずかに目を細めた。
「……構造が違います」
低く呟く。
高峰が問う。
「何が見えた」
「これは——」
一瞬、言葉を選ぶ。
そして。
「“再生”ではありません」
断定する。
「“継承”です」
その意味を、高峰はすぐに理解できなかった。
だが。
嫌な予感だけは、はっきりと残った。
これは終わった事件じゃない。
続いている。
そして。
今この瞬間も——
“次”が生まれている。




