第3話 受胎型残響・左眼連続殺人事件 その3 朝に残るもの
朝、最初に気づいたのは手だった。
シーツの上に、赤黒い染みがにじんでいる。乾いていて、ひび割れていて、においだけが遅れて鼻に届く。鉄の匂い。生臭く、でもどこか甘い。
「……なに、これ」
声が出た。自分のものなのに、距離があった。
右手の指先に、こすっても落ちない赤。爪の間に入り込んで、歯ブラシの先で削ってもきれいにならない。血だと理解したのは、十秒くらいあとだった。
でも、どうして。
立ち上がろうとして、足元に違和感を覚えた。床に、小さな点々が続いている。玄関の方まで。水滴みたいに、でも乾いている。
夢か、と一瞬思う。でも夢はこんな匂いを残さない。
洗面台に向かう。鏡の中の顔は、いつもどおりだ。眼鏡をかけた、優等生の顔。テストでも、提出物でも、一度もしくじったことがない顔。友達からは「真面目」と言われ、先生からは「模範」と言われる顔。
なのに——
「……目」
左目に違和感がある。
痛いわけじゃない。
ただ、“見られている”感覚が強い。
まぶたの裏側から、自分じゃない誰かの視線が覗いているような、そんな嫌な感覚。
息を整えてから、顔を洗った。血の匂いは消えない。石鹸の香りと混ざって、余計に気持ち悪くなる。
リビングに行くと、母はすでに台所に立っていた。
「おはよう……」
「あ、おはよう。早いわね」
いつもの光景。いつもの声。トーストの焼ける音。ニュースの音。
「……今日は学校?」
「うん。発表あるから」
あの自由研究。
犯罪心理学。
十年前の連続殺人犯についての発表。
資料はちゃんと用意した。公判録も、専門書も、論文も、調べられるものは全部。
ただ「怖い事件」をまとめるんじゃなくて、“なぜそうなるのか”を知りたかっただけなのに。
「無理しないでね」
「大丈夫。ちゃんとやるよ」
言いながら、カバンに手を伸ばした瞬間、指が止まった。
重い。
いつもより、確実に重い。
机に置いて開ける。ノート、教科書、筆箱……それから、見覚えのない布に包まれた塊。
嫌な予感がして、指が少し震える。
布をほどくと、中から小さなナイフが出てきた。
柄が黒くて、金属部分が磨き上げられている。家庭にある果物ナイフとは違う。細くて、先が鋭くて、明らかに“用途の違う”形。
「……なんで」
声が掠れた。
こんなもの、持った覚えはない。
まして、バッグに入れた記憶なんて。
けれど、同時に、胸の奥が僅かにざわついた。
嫌悪じゃない。
恐怖ですらない。
——少しだけ、“懐かしい”。
ぞっとする。
布を戻そうとしたとき、手首の内側に細い傷があることに気づいた。
引っかいたような、浅い切り傷。
昨日こんなの、あっただろうか。
記憶を辿ろうとすると、そこだけが霧になっている。
夜の記憶が、ない。
風呂に入ったあたりまでは覚えている。勉強して、少しスマホを見て、寝た。
そこから先が、丸ごと抜け落ちている。
「行ってくる」
ナイフを布で包み直し、カバンに戻した。届出る、という考えは浮かばなかった。なぜか、自然に“隠さなきゃ”と思った。
駅までの道で、ポケットが振動した。クラスのグループチャット。
【ねぇ知ってる? 昨日も事件あったらしいよ】
【また左目らしい…】
【怖すぎ】
【同じ犯人なんじゃない?】
指が、勝手に画面をスクロールする。
被害者はまた女性。会社帰りの二十代後半。場所は、昨日通った商店街の裏通り。
胸の奥が、熱くなる。
怖いはずなのに、
なぜか、胸のどこかに“引っかかる感覚”がある。
まるで、知っている話をもう一度聞かされているみたいに。
頭の中で、声がした。
はっきりした言葉じゃない。
でも、意味はわかる。
——まだ、足りない。
ぞくっとした。
「誰だよ……」
そう呟いたけれど、口の中に残る感覚は、自分の声じゃないようだった。
駅のホーム。
制服の学生たち。
いつもの朝。
なのに、世界の輪郭が、昨日より少しだけ歪んで見える。
左目だけが妙に焦点を結び、
周囲の人間を“対象”として認識してしまう。
顔。骨格。眼。
そういうものばかりに目がいく。
「……だめだろ、これ」
そう口に出しながら、心のどこかで思っている。
——でも、悪くない。
そして、自分の中の“何か”が確実に育っている感覚を、
もう否定できなくなっていた。




