第23話 復讐の果てに… その2 使えなくなった部品
結衣の足音が遠ざかる。
祈りの残滓が濃い大聖堂の奥へ、彼女の赤雷がひと筋、引かれていく。
あれは灯火ではない。燃え尽きる前の導火線だ。
梓は、その導火線を見送ってから、視線を戻した。
森 宗意軒は、笑っていた。
《いい。いいぞ。刃は急いでいる。急いでいる刃は、必ず折れる》
「折れません」
梓は淡々と返す。
「折れる前に、終わらせます」
森 宗意軒は鼻で笑った。
《終わらせる? 何をだ。俺をか。天草をか。世界をか》
足元に、火の筋が走る。
石畳の目地から赤い光が滲み、祈りの座標へ絡みつく。椅子に沈む失踪者たちの呼吸が微かに震えた。
森 宗意軒は彼らを見ない。
燃料としてしか見ていない。
《祓屋。お前のそのやり方はな――》
森 宗意軒が一歩踏み出す。
《生かすために縛る。救うために切れない。……甘い》
梓は量子暗号札を掲げた。薄い金属板に刻まれた祓詞が青白い光を吐く。
床の火筋に、別の線が重なる。切断ではない。誤った接続をほどき、繋ぎ直す。
「甘さじゃありません。整合性です」
《整合性?》
森 宗意軒は楽しげに首を傾げた。
《祈りに整合性など無い。祈りは矛盾だ。恐れと願いが同居する汚泥だ》
森 宗意軒の指が鳴る。
火が跳ねた。
火の刃が梓へ向かう。
梓は動かない。
札を一枚切った。
青白い膜が、火刃の“意味”だけを削いでいく。熱は残る。しかし刃としての形を保てない。
火刃は梓の肩口を掠め、焼ける痛みだけを残して散った。
梓の眉が、僅かに動く。
痛みを認める。だが、そこに燃料は与えない。
《……やはり、面白い》
森 宗意軒の声音が低くなる。
面白がっているようで、その奥に苛立ちが混じる。
《燃えない女だ。燃えないから、焙る》
森 宗意軒の火が、床を這った。
火筋は椅子の下を潜り、失踪者へ絡みつこうとする。
祈りの座標を繋ぎ、炉を完成させるつもりだ。
梓は、札を二枚、三枚と切った。
青白い線が失踪者たちを包み、接続を断つ。祈りの流路を遮り、燃料を奪う。
森 宗意軒の火が揺らぐ。
《……余計なことを》
森 宗意軒の足が止まる。
「燃料がなければ火は弱る。分かっています」
《違う!》
宗意軒の声が、ほんの少し鋭くなる。
《燃料がなくなれば――別の燃料を燃やすだけだ》
視界が歪んだ。
梓の足元が、石畳から畳へ変わる。
冷却装置の低音。蛍光灯のノイズ。真空のような沈黙。
――嫌な場所。
喉の奥が、無意識に締まる。
森 宗意軒の幻術。隠神刑部の“化け”。
《救いたい上司。救えない上司》
森 宗意軒の囁きが耳に刺さる。
《お前はあの娘のために立っているのか? それとも、あいつの影を追っているだけか?》
梓は息を吸った。
胸が痛む。記憶の端がちぎれそうになる。
――燃料にするな。
梓は八鍵に修正命令を流し、量子暗号札をかざす。
「祓詞、中和・復調」
青白い円が走り、幻の“接続”を無効化する。
畳が揺れ、石畳が戻る。
森 宗意軒は、鼻で笑った。
《強がりだ。お前の正しさは、穴だらけだ》
森 宗意軒が腕を振る。
火の斬撃ではない。
火そのものが“圧”になる。
空気を押し潰し、梓の肺を締め上げる。
梓は膝を折りかけた。
目の前が白く弾ける。耳鳴りがする。
だが倒れない。
倒れるわけにはいかない。
梓は札を切った。
切る指が、微かに震えた。
「祓詞、遮断・断界」
青白い膜が圧をいなし、火の圧が散る。
森 宗意軒は、その震えを見逃さなかった。
《ほら。削れている》
森 宗意軒の声が甘くなる。
毒を混ぜた甘さだ。
《お前も刃も、同じだ。削れば折れる。折れれば、残るのは――》
森 宗意軒は、微かに笑った。
《残穢だ》
梓の目が、僅かに鋭くなる。
森 宗意軒は知っている。
残穢を集める者がいる。
そして、利用している。
森 宗意軒は続けた。
《あの娘は刃だ。誰かの道具だ。お前は何だ? 使い捨ての修正具か?》
梓は答えない。
答えることが森 宗意軒の燃料になる。
代わりに梓は、森 宗意軒の足元の火筋を“読む”。
火筋は、必ず一つの中心へ向かっていた。
炉の中心。
祈りの座標を集め、圧縮し、何かを降ろすための座。
――鵺。
梓の背筋が冷えた。
森 宗意軒は気づいていない。
自分が何を完成させようとしているのか。
いや、気づいていないふりをしているのか。
どちらにせよ――危険だ。
森 宗意軒は、梓の視線の先を読み取ったらしい。
わずかに口元が歪む。
《察したか?》
「……あなた、天草四郎を使うつもりですね」
森 宗意軒の笑みが深くなる。
《使う? 違う。利用する。……あれは神を気取っているが、所詮は“願い”の塊だ。形を与えれば動く》
梓は、静かに息を吐いた。
森 宗意軒は、己を賢いと思っている。
天草四郎の上に立てると思っている。
――だから、溺れる。
梓は森 宗意軒の足元の火筋へ、修正の線を一本、差し込んだ。
切らない。壊さない。
ほんの少しだけ“誤接続”を与える。
炉の中心へ向かうはずの火筋の一部が、森 宗意軒自身へ回り込む。
燃料が、森 宗意軒の心へ寄る。
森 宗意軒の影が、わずかに揺らいだ。
《……何をした?》
「あなたの火の行き先を、整えただけです」
梓は淡々と言った。
「“あなたにふさわしい場所”へ」
森 宗意軒の目が細くなる。
《ふざけるな!俺は――》
「あなたは、切り捨てられる側です」
梓は、静かに言い切った。
森 宗意軒の笑みが消えた。
初めて、苛立ちではないものが浮かぶ。
恐れ。
森 宗意軒は、火を強めようとした。
強めて、己を誤魔化そうとした。
だが、それが致命手になった。
炉が完成する。
祈りの座標が圧縮され、空間が軋み、天井の闇が裂ける。
音が消える。
大聖堂全体が、息を止めたように静まり返った。
森 宗意軒は、気づいた。
遅れて。
《……まさか!?》
梓は答えない。
答える必要がない。
背後の闇が、蠢いた。
重い存在感。
床を踏み潰すような圧。
空気が、獣の体温を帯びる。
影が、獣の輪郭を取る。
サルの顔。
タヌキの胴。
トラの手足。
ヘビの尾。
だが、近づくほどに分かる。
それは獣ではない。
人の身体が折り重なり、関節が噛み合わず、骨が逆向きに積み上がり、獣に“見える”形を無理やり作っている。
鵺。
森 宗意軒が、咄嗟に後退した。
《待て!俺は――》
言い訳が出る。
遅い。
森 宗意軒は笑おうとした。
交渉しようとした。
利用しようとした。
その全部が、火の匂いを撒き散らすだけだった。
鵺の影が、森 宗意軒の背後へ落ちる。
影ではない。
捕食だ。
森 宗意軒の足元が沈む。
闇が足首を掴み、膝を折らせ、腰を引きずり込む。
森 宗意軒の声が、初めて乱れた。
《俺は、裏切るわけじゃない!これは……より良い……策を……》
最後まで“策”の言葉を吐こうとした。
その瞬間、鵺の口が開いた。
獣の口ではない。
人の口がいくつも重なった、裂けた口だ。
喉の奥から、別の喉が覗く。
森 宗意軒の言葉は、そこで途切れた。
音が、吸い込まれる。
森 宗意軒の身体が、闇へ引かれていく。
骨が鳴る。関節が軋む。だが悲鳴は長く続かない。
鵺は、咀嚼しない。
噛み砕かない。
ただ、取り込む。
森 宗意軒の火が、最後にひとつ、空中で弾けた。
その火は、祈りの火ではない。
策士が燃え尽きる火だ。
闇が閉じた。
梓は、息を止めていたことに気づき、ゆっくり吐いた。
勝ったわけではない。
ただ、森 宗意軒が盤面から消えただけだ。
そして盤面の上には、最初からそこにいるべき存在が、残った。
鵺の影が、蠢く。
その内部で、何かが“立ち上がる”気配がした。
闇が、閉じた。
森 宗意軒の気配は、完全に消失していた。
火も、灰も、残らない。
そこにいた“策士”という概念そのものが、消されたかのようだった。
床の中央に、歪んだ影だけが残る。
鵺。
人の身体が折り重なり、獣の形を模したそれは、もはや動かない。
攻撃の意思も、捕食の衝動もない。
梓は八鍵を構えたまま、息を整える。
視線は外さないが、踏み込まない。
鵺は、梓を見ない。
視線は定まらず、どこか“上”を向いている。
人ではない。
結衣でもない。
自分自身の在り処を見据えている。
鵺の内部で、低い声が鳴った。
《……もう少しは、使えると思ったがな》
淡々とした評価。
怒りも、惜別もない。
森 宗意軒は“使えなくなった”。
それだけの理由だ。
梓の背筋に、冷たい理解が走る。
――選別。
裏切ったからではない。
策を弄したからでもない。
神になる過程で、不要になった。
森 宗意軒は、最後まで「部品」だった。
鵺の影が、ゆっくりとほどけていく。
霧が立つ。
床から、柱へ、天井へ。
祈りの残滓を攫いながら、影は薄くなる。
梓は、悟った。
鵺は、この場で何かを“始める”つもりはない。
ここでの目的は、すでに達成されている。
森 宗意軒の排除。
それだけだ。
鵺は、誰とも対峙しない。
勝敗を競う気もない。
戦う必要がないから。
消え際、鵺の内部から、微かな意志の波が漏れた。
《純度が…下がる》
祈りが混ざりすぎている。
人の欲と策が、神への回路を汚す。
だから、切った。
それだけの話だ。
霧が、完全に晴れる。
鵺の姿は、そこになかった。
残ったのは、静寂と、冷え切った空気だけだ。
それでも。
梓の胸に、確かな寒気が残る。
神になろうとする存在が、
人の命を「純度」で切り分ける。
それが、現実に起きている。
梓は、踵を返した。
人が壊れる前に、追いつくためだ。
大聖堂の奥へ、梓は歩き出した。
静かに。
確実に。
次の地獄は、すでに動いている。




