第23話 復讐の果てに… その1 時間を喰う者
大聖堂の影は、夜よりも濃かった。
高い尖塔が空を裂くように立ち、石造りの壁面に刻まれた聖人たちの彫像が、闇の中でこちらを見下ろしている。祈りのための場所だというのに、結衣の肌には、肌理の細かい悪意が貼りつくような感覚があった。
空気が、重い。
祈りが溜まりすぎて、腐り始めている。
中に入る前から分かる。ここはもう、人が集まるための場所じゃない。集められる場所だ。
結衣は足を止めなかった。
時間が、容赦なく削れていくのを身体が教えてくる。胸の痣が、鼓動のたびに焼ける。呼吸のリズムが、少しずつ狂っていく。
それでも、足は前に出る。
扉は、開いていた。
誰かが開けたわけじゃない。
「閉じる意味を失った」開き方だった。
中は、広い。
天井が高すぎて、暗闇の奥に吸い込まれている。ステンドグラスは割れていないのに、色を失っている。光が差し込んでも、床に落ちる前に溶ける。
人影が、あった。
椅子に座る者。
床に膝をつく者。
立ったまま、天井を仰ぐ者。
誰も動かない。
呼吸はしている。心臓も動いている。だが、意識の輪郭が曖昧だ。魂が、半分ほど剥がされて、どこか別の場所に引っ張られている。
――間に合っていない。
結衣は、歯を食いしばった。
その瞬間、空気が揺れた。
背後。
音もなく、殺意だけが差し込んでくる。
結衣は反射で身を捻った。
刃が、頬を掠める。熱を伴う斬撃。火の匂い。
床に転がり、距離を取る。
立っていたのは、人の形をした影だった。
だが、輪郭が曖昧だ。皮膚が、一定の形を保っていない。顔が、時折別の顔に揺らぐ。
森 宗意軒。
名乗らない。だが、分かる。
有家監物や蘆塚忠右衛門とは違う。これは、最初から“外側”にいた者だ。刃の外側で、すべてを見ていた者。
《……ここまで来たか》
声が、複数重なって聞こえる。男の声であり、老人の声であり、どこか子供じみてもいる。
火の気配を纏いながら、悠然と立つその姿は、まるで結衣の内側を見透かしているかのようだった。
《……いい顔だ》
森 宗意軒が言う。
《刃が冴えている。血も澄んでいる。……だが》
森 宗意軒は、にやりと笑った。
《焦っている》
結衣は、歯を食いしばる。
否定しようとして、できなかった。
事実だからだ。
今ここで足止めを食えば、天草四郎に辿り着けない。
時間を浪費すれば、それだけで敗北だ。
「……黙れ」
結衣は、八咫刀・滅を構える。
赤雷が、刃に走る。
森 宗意軒は、その動きを見て、わずかに肩をすくめた。
《ほらな。急いでいる》
結衣は踏み込んだ。
一閃。
赤雷が、一直線に森 宗意軒を切り裂く。
――手応えは、ない。
火花とともに、森 宗意軒の身体が揺らぐ。
だが、それは“避けた”のではない。
燃えた。
斬撃の通った箇所が、瞬時に炎へと変わり、形を失う。
《悪くない》
森 宗意軒の声が、炎の向こうから聞こえる。
《だが、直線的すぎる。……余裕がない》
背後。
空気が歪む。
結衣は反射的に身を捻った。
遅い。
炎を帯びた斬撃が、結衣の肩を掠める。
焼ける痛み。
肉が焦げる匂い。
「――っ!」
結衣は歯を食いしばり、距離を取る。
傷は浅い。
だが、確実に削られている。
森 宗意軒は、追ってこない。
それが、なおさら焦りを煽った。
《分かっているか?》
森 宗意軒の声は、穏やかだった。
《お前は今、“正しい判断”ができない》
結衣は、舌打ちする。
「……うるさい!」
《時間が減る。焦る。攻める。隙ができる》
森 宗意軒は、指を一本立てた。
《――その繰り返しだ》
結衣の視界の端で、赤雷が揺れる。
力はある。
確かに、今の結衣は強い。
だが、それは刃が冴えているだけだ。
思考が、追いついていない。
《お前は、“急ぐこと”が勝利条件だと思っている》
森 宗意軒が続ける。
《だがな…戦は、相手の時間を奪った者が勝つ》
結衣の呼吸が、乱れる。
分かっている。
分かっているのに、止まれない。
天草四郎がいる。
兄を奪った仇が、そこにいる。
時間を無駄にするわけにはいかない。
「……黙れ!」
結衣は、再び踏み込んだ。
今度は、斬撃ではない。
体当たりに近い距離で、刃を振るう。
森 宗意軒の口元が、僅かに歪んだ。
――狙い通り。
森 宗意軒は、わざと距離を詰めさせた。
至近距離で、炎が爆ぜる。
結衣の視界が、白く弾けた。
衝撃。
身体が宙を舞う。
地面に叩きつけられ、肺の空気が一気に抜ける。
「……ぐっ……」
立ち上がろうとして、膝が笑う。
薬のおかげで、致命傷ではない。
だが、時間だけが、確実に削れていく。
《いい削れ方だ》
森 宗意軒は、楽しげだった。
《お前は今、“自分で自分を殺している”》
結衣は、唇を噛んだ。
怒りが、判断を曇らせる。
このままでは――
その瞬間。
空気が、変わった。
火の流れが、止まる。
森 宗意軒の炎が、明らかに“切断”される。
赤雷ではない。
紫電でもない。
青白い修正の光。
「……そこまでです」
声。
静かで、冷静な声。
結衣の視界に、人影が割り込む。
真名井梓。
森 宗意軒が、低く唸った。
《……また来たか》
梓は森 宗意軒を見据えたまま、結衣に言う。
「結衣、あなたは、先へ行ってください」
「……何?」
結衣は、息を荒げたまま聞き返す。
「このままでは、あなたが潰れます」
梓の声は、淡々としていた。
「ここは、私が引き受けます」
結衣は、一瞬、躊躇した。
だが――時間がない。
それを、梓も分かっている。
「……借りる」
結衣は、短く言った。
梓は、頷くだけだった。
森 宗意軒が、肩をすくめる。
《祓屋。……いい役回りだ》
「役割分担です」
梓は、八鍵を構えた。
「あなたは、“ここで終わり”」
結衣は、振り返らない。
痛みを引きずる身体で、残響世界の奥へと走る。
背後で、炎と修正の衝突音が響く。
結衣は、歯を食いしめながら思った。
――負けるな。
――時間を、奪い返す。
その背中を、宗意軒が見送る。
唇に、薄い笑みを浮かべながら。
《……いい。刃は、ますます折れやすくなる》
そして、森 宗意軒は、梓へと向き直った。
本当の戦いは、ここからだ。




