第22話 帰れない場所 その5 期限の鐘が鳴る
痛みが引いたわけじゃない。
痛みの“質”が変わっただけだった。
結衣は、目を開けた瞬間から分かっていた。身体は動く。呼吸もできる。だが、それは自分の身体が回復した感触じゃない。臓器の奥に、見知らぬ冷たい歯車が噛み合って、無理やり回っている感触だった。動けば動くほど、どこかが摩耗して削れていく。期限付きの機械。
胸の痣は消えていない。心臓の輪郭に沿って、黒に近い紫が沈んでいる。触れなくても分かる。皮膚の下で、痛みが呼吸に合わせて“擦れる”音を立てている。
結衣はベッドの縁に座り、手のひらを見た。指先が僅かに震えている。怖いわけじゃない。身体が「やめろ」と言っている。その命令に従う気はないのに、神経が勝手に揺れる。
喉が渇いていた。
水を探して、コップに口をつける。冷たいはずの水が、熱い。舌の表面が焼ける。胃が拒絶する。咳き込み、吐く。透明だったはずの水に赤が混ざって、床に落ちた。
吐血。
それを見て、結衣は笑いもしない。驚きもしない。
そういう代償を、最初から飲んだ。
ベッド脇に、黒い布で包まれたものが置かれていた。八咫刀・滅。まるで刃が眠っているみたいに静かだった。
結衣は布をほどき、柄に触れた。
冷たい。
冷たいのに、指先が焼ける。
刃の器が、自分の中を見ている気がした。心臓のヒビの奥を、覗き込んでいる気がした。
「……私を、食う気か」
誰にも届かない声で呟く。
その声は、病室の壁に吸われて消えた。
時計がない。だが、時間は分かる。身体が教える。薬が教える。脳の奥で、見えない砂時計が落ち続けている。四十八時間。今は――たぶん、もう四十六を切っている。
結衣は立ち上がった。足が床に沈む感じがない。軽い。軽すぎる。痛みが薄いぶん、身体の危険信号が鈍っている。これは便利だ。便利なものは、だいたい命に悪い。
廊下に出ると、中森の気配がした。タバコの匂いが、壁の向こうから滲んでくる。
中森は、簡易の机の前で何かを広げていた。紙ではない。薄い端末。古い資料のスキャン。地図。修道院の設計図のような線。祈りの集積点。通信のノード。そんなものが重なって見える。
結衣が近づくと、中森は視線だけを上げた。
「白くなったな」
「うるさい」
結衣は即答した。自分でも声が刺々しいのが分かった。でも、今さら取り繕う気はない。
「似合うとか言わねえよ。安っぽいホラーみたいでイヤだな、って感想だ」
「殴るぞ」
「殴れるなら殴ってみろ。残り時間が減るぞ」
中森の軽口は雑だった。中年の、わざと品を落とす調子。だが、その目は笑っていない。結衣の胸の痣を見ている。
「今の状態、分かってるか」
「分かってる」
「分かってねえ顔だ」
結衣は机に手をついて身を乗り出した。胸が少し痛んだ。痛みは薄い。薄いまま、深い。底が見えない。
「時間がない。天草四郎の場所を――」
「探してる」
中森が遮った。
「探してるが、見えねえ。薄気味悪いくらい綺麗に足跡が消えてる。信者が“自発的に”隠してるか、そもそも現実側にいないか、だ」
「……森宗意軒が言ってた。利用してるだけだって」
「あいつはあいつなりに、“利用してるつもり”なんだろうな」
中森は鼻で笑った。軽い笑いのくせに、笑ったあとに疲れが残る。
「利用って言葉、便利だろ。自分が上にいる気になれる。上にいる奴ほど、落ちる時は派手だ」
結衣はその軽口に反応しなかった。今欲しいのは言葉じゃない。場所だ。座標だ。出口だ。
「……真名井梓に会う」
結衣が言うと、中森はわずかに眉を動かした。
「頭下げるのか」
「下げる」
結衣は即答した。
その即答が、自分でも異様に感じた。自分が誰かに頭を下げる場面が、想像できない人生だった。だが今は違う。時間がない。自尊心は、仇の前ではゴミだ。
「お前、変わったな」
「変わってない。必要なことをするだけ」
「それを変わったって言うんだよ」
中森は端末を閉じ、椅子から立ち上がった。
「行け。場所は教えとく。あいつの“修正”は遅いが、情報の拾い方は上手い」
結衣は、胸の奥で小さく苛立った。
遅い。
修正は、遅い。
滅殺に慣れた自分には、祓いの“手順”がまどろっこしい。
だが、今日だけは言わない。
結衣は黙って頷き、歩いた。
現実側の空気は冷えていた。郊外の夜明け前は、湿って骨に刺さる。結衣の白い髪が、街灯の下で異物みたいに光る。フードを深く被った。自分の変化を、他人に見せたくなかった。
真名井梓は、指定された場所にいた。人通りの少ない駐車場の端。背中を壁に預け、端末をいじっている。顔色は悪い。あの女はいつだって疲れている。疲れているのに、目だけが冴えている。
結衣が近づくと、梓は視線を上げた。白い髪を見て、目が一瞬だけ止まる。驚きは顔に出さない。
「……無茶しましたね」
敬語。だが丁寧すぎない。距離を保つための敬語。
「時間がない」
結衣は、真っ直ぐ言った。
「天草四郎の場所。手がかりが欲しい」
梓は返事をせず、結衣の胸元を見た。痣の位置。色。呼吸の癖。そういうのを一瞬で拾う。
「……時間制約の類いですね」
「中森が言った?」
「言わなくても分かります。あなたは瀕死でした。」
結衣は喉の奥で息を飲んだ。
「お願い!」
結衣は言った。
そして、頭を下げた。
梓の気配が、僅かに揺れた。
すぐに元に戻る。だが、確かに揺れた。
「……頭を下げるの、似合わないですよ」
「似合わなくていい」
「……分かりました」
梓は端末を操作し、情報を繋ぎ直す。中森とは違うやり方だ。汚い裏口ではなく、壊れかけの表口から無理やりこじ開けるやり方。時間がかかる。だが、根が深い場所に届く。
「行方不明者の動線、拾います」
「早く」
「急ぎます。……ただ、結衣」
梓が初めて、結衣の目を見た。
「今のあなたは、“勝てても死ぬ”状態です。分かってますね」
「分かってる」
「……それでも行くんですね」
「行く」
梓は、少しだけ唇を噛んだ。
感情を出さない女が、珍しく出した反応だった。
「……じゃあ、私も動きます」
その言い方が、結衣には引っかかった。
“助ける”じゃない。
“動く”。
干渉する気だ。観測者じゃない。関与者だ。
それが、少しだけ怖かった。
時間は、残酷に進んだ。
中森は裏を回り、宗教団体の寄付の流れ、礼拝堂の改修費、輸送記録、消えた人間の名簿を漁った。梓は表のデータを掘り、失踪者のSNS、位置情報の断片、病院の受診履歴、教会系施設の出入り記録を繋いだ。
結衣はその間、じっとしていられなかった。
身体は動く。動ける。だから動く。動けば、焦りをごまかせる。
だが、動くたびに、胸の痣が熱を持った。
熱は痛みに変わり、痛みは時々、心臓の奥を掴むみたいに締め付けてきた。
薬は万能じゃない。
薬は「壊れる速度」を変えただけだ。
そして、丸一日が消えた。
結衣は、気づいた時に指を折って数えた。
残り――二十四時間を切っている。
喉の奥が冷たくなる。
焦りが、現実の温度を奪う。
「……まだなの!?」
結衣は中森に言った。
声が荒い。自分でも分かる。八つ当たりに近い。
中森は端末を机に放り投げた。
「見つかんねえ。いや、“見つからないようにしてる”」
「誰が!」
「決まってるだろ。信者か、寄生体か、残響そのものだ」
中森は煙草を咥え、火をつけた。吸い込む動作が、やけに長い。
「時間、どれくらい残ってる」
「……二十四時間切った」
中森の目が、ほんの少しだけ細くなった。
軽口が消えた。
「間に合わねえなら、間に合わねえで終わりだ。お前が選んだ」
「分かってる!」
結衣は言った。
分かっている。分かっているのに、喉の奥で何かが震える。恐怖じゃない。悔しさだ。時間に負ける悔しさ。
その時、梓の端末が鳴った。
短い着信音。
梓が出る。
「……高峰さん?」
結衣の耳が、反射でその名を拾った。
県警の男。現実を信じて、現実に縛られて、それでも現実だけでは足りなくなっている男。
梓は端末を耳に当て、表情を動かさずに聞いた。
だが、次の瞬間だけ、目が僅かに鋭くなる。
「……聖マリア大聖堂?」
結衣の胸が、冷える。
梓の声が続く。
「各地の失踪者が……集まってきている?」
結衣は一歩近づいた。
胸の痣が痛む。構わない。
梓は短く返事をし、通話を切った。
顔を上げる。
「……場所が出ました」
結衣は息を吸った。
空気が、刃のように冷たい。
「どこ」
「都心にある大聖堂です」
中森が、舌打ちした。
「絵に描いたような“祈りの集積点”だな。派手にやる気だ、あいつ」
結衣は、白い髪の奥で目を細めた。
胸の奥で、砂時計が音を立てた。
残り時間が、肌の上を走っていく。
――間に合う。
間に合わせる。
結衣は八咫刀・滅に手を伸ばした。
刃は冷たい。冷たいまま、赤い雷の予感を孕んでいる。
「行く」
梓が結衣を見た。
「……一人で行く気ですか」
「当然」
「当然じゃないです」
梓の声が、ほんの少しだけ強くなる。敬語は崩さない。だが、抑えが利かない。
「あなた、もう限界が近い」
「限界なら、越える」
結衣は言った。
その言葉は強がりじゃない。祈りでもない。事実だ。越えなければ、時間が勝つ。
中森が、肩をすくめた。
「まあ、行くよな。行かねえならここまでの地獄が全部ムダだ」
軽口に戻した。戻せるだけの余裕を、無理やり作っている。
「……死ぬなよ、とは言わねえ。死ぬなら、派手に死ね」
結衣は中森を見た。
「派手じゃなくていい。仇だけ討てれば」
「その仇が派手なんだよ」
中森は笑った。笑ったが、目は笑っていない。
結衣は息を吸い、吐いた。
胸の痣が疼く。時間が鳴る。
そして歩き出した。
祈りが集まる場所へ。
祈りを喰う者が待つ場所へ。
自分が朽ちる前に、すべてを焼く場所へ。
時間は、もう味方じゃない。
時間は、敵だった。




