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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い

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第22話 帰れない場所 その4 借りた命の時間

 意識が浮上した瞬間、結衣は「生きている」ことを痛みで理解した。


 目を開けるより先に、胸の奥が脈打つ。

 脈は規則的なのに、そこだけが遅れている。心臓が、ひび割れたまま鼓動している――そんな感覚。吸う息が胸郭の内側を擦り、吐く息がその亀裂に冷たい刃を差し込むみたいに痛い。


 声を出そうとすると、喉が鳴るだけだった。

 唇の裏が乾いて、舌が重い。血の味がする。たぶん、どこかを噛んだ。


 天井は白い。光は弱い。病院の蛍光灯というより、地下の作業灯みたいな色だった。壁も白いのに、白が清潔じゃない。薬品で何度も拭かれた白。汚れを消すための白。


 消毒液の匂いが遅れて鼻に刺さった。

 次に、鉄の匂い。血の匂い。

 そして、焦げた匂い――自分の内側から立ち上る匂い。


 結衣は瞬きして、視界の端に誰かがいるのを確認した。

 白衣ではない。作業着でもない。黒いジャケット。椅子ではなく壁にもたれて立っている。


 中森安行。


 相変わらず、表情が薄い。

 薄いまま、目だけがこちらを見ている。


「起きたか」


 それだけ。

 心配も、安堵も、ない。検品みたいな声。


 結衣は唇を動かした。言葉にする前に、胸が裂けるように痛んで、息が途切れる。


「……っ、う……」


 呻きが漏れた。情けない音。


 中森は動かない。

 見ているだけだ。


 結衣は自分の身体を少しだけ確かめようとして、右手が動かないことに気づいた。動かそうとすると、肩の奥が鋭く痛む。背中にも痛みがある。宗意軒の斬撃の感触が、まだ皮膚の裏に残っている。


 左胸の内側――心臓の辺りが、最悪だった。

 そこだけ、痛みの種類が違う。肉の痛みではない。骨でもない。もっと奥。身体の構造そのものが壊れている感じ。


「……礼拝…堂…は」


 やっと言葉が出た。掠れて、声になっていない。


 中森は、視線を逸らさずに答えた。


「生徒は生きてる。意識は戻ってないのが何人か。だが死体は出てない」


 結衣は息を吐こうとして、失敗した。胸が痛みで固まって、酸素が入らない。視界が暗くなる。


 それでも、そこだけは確認できた。

 ――死体は出てない。


 安堵しようとしたが、安堵の仕方を忘れていた。


 結衣の目から、涙が落ちた。

 勝手に出る。止められない。泣くつもりなんてないのに、涙だけが先に崩れる。


 中森は何も言わない。


 結衣は歯を食いしばった。泣くな。泣くな。

 でも、胸が痛すぎて、怒りも憎しみも形にならない。涙が、痛みの隙間から漏れるみたいに落ちる。


「……灼滅を使ったな」


 中森が言った。


 結衣は頷いた。

 頷く動きだけで胸が裂けて、また涙が出た。


「そうか」


 それだけだった。

 それだけなのが、刺さった。


 結衣は喉の奥から声を絞り出した。


「……それ…で、終わ…り?」


 中森は少しだけ眉を動かした。驚きでも困惑でもない。気だるい合図。


「終わりだ」


 短い。冷たい。

 刃物みたいに迷いがない。


「お前はここまでだ。契約終了」


 結衣の胸が、痛みとは別の意味で沈んだ。


「……ふざけ…るな」


 声が震えた。涙が止まらない。止まらないまま、怒りが混ざる。


「……仇が…まだ……」


「無理だ」


 即答。


「心臓に入ったヒビは戻らん。精神もだ。灼滅を吐いた時点で、お前はもう“次”がない」


 結衣はシーツを掴んだ。指が白くなる。

 起き上がろうとしたが、身体が言うことを聞かない。胸が砕けそうで、背中が裂ける。


「……生き…てる……!」


 叫びたいのに、声が出ない。

 声が出ないのが悔しくて、喉を掻きむしりたくなる。


「……まだ……動け…る……」


 中森はため息をついた。深い、面倒臭そうなため息。


「拾った命を粗末にするな」


 結衣は笑った。歪んだ笑いだった。

 笑いが涙に潰れて、咳になる。


「…仇も…討てずに……生き…ながらえる…方が……」


 言葉が途切れる。涙で鼻が詰まり、息ができない。


「……無意味…だ……」


 結衣は泣きながら言った。


「…あいつに……一矢でも…報いて……」


 口の中が鉄の味になる。

 あの日の血の味に近い。思い出したくない味。


「……今…死ねる…なら……」


 胸が痛む。心臓が割れる。

 それでも言った。


「……そっちの…方が……大切だ……」


 中森は黙って聞いていた。

 顔色ひとつ変えない。変えないまま、目だけがわずかに細くなる。


「……ガキの理屈だ」


 軽口のように言った。だが、そこに笑いはない。


「仇を討ったら満足か? 満足した瞬間に、空っぽになるぞ」


「……空っぽ…でいい…」


 結衣は即答した。


「…空っぽに……なって…死ぬなら…それでいい」


 中森の目が、ほんの少しだけ動いた。

 結衣の胸の痣の位置を見たのかもしれない。


「……本当に“何でも”する気か」


 結衣は頷いた。

 頷いた瞬間、視界が暗くなる。痛みが酷い。だが、首だけは動いた。


「…何…でも!」


 中森は鼻で笑った。


「じゃあまず、“何もしない”をやれ。寝ろ」


 言い捨てて、踵を返した。


 結衣の中で、何かが折れかけた。

 折れかけたのを、怒りが無理やり繋ぎ止めた。


「…待て……!」


 結衣は叫んだつもりだった。

 実際は掠れ声だった。


「……私を…ここまで…削って……」


 言葉が震える。涙が止まらない。


「……今さら…“終わり”…とか……」


 中森は扉の前で止まった。


「最初から、そういう契約だろ」


 振り向かないまま言った。


「壊れる前提で使ってきた。お前も分かってただろ」


 それで終わりだった。

 扉が閉まった。音が、やけに大きく響いた。


 結衣はベッドの上で、息を吸うことも吐くこともできず、ただ泣いた。

 悔しくて泣いた。

 痛くて泣いた。

 仇に届かない自分が、惨めで泣いた。


 それでも、涙が乾く頃には、結衣の中に残ったものがあった。


 ――執念。


 夜が深まる。

 時計がないから正確な時間は分からない。だが、闇医者の施設は夜になるとさらに静かになった。人の気配が薄くなる。監視が甘くなる。


 結衣はゆっくり身体を起こした。


 胸の痣が、脈に合わせて疼く。

 痛みが「心臓の形」をなぞるように広がる。まるで亀裂が生き物みたいに動いている。


「……っ」


 声が漏れた。

 唇を噛んで、立ち上がる。


 足が震える。膝が笑う。

 一歩踏み出しただけで、視界が揺れる。


 それでも、止まらない。


 点滴の管が腕に刺さっている。引き抜こうとすると、腕の奥に痛みが走る。構わない。引き抜いた。血が垂れた。床に落ちて黒く滲む。


 廊下に出る。


 床は冷たい。壁は安い。

 この場所が「普通の病院」ではないのが分かる。匂いが違う。明るさが違う。人間の気配が薄い。ここは、生きるための場所じゃない。壊れたものを“まだ動くように見せる”ための場所だ。


 結衣は壁に手をつきながら、出口へ向かった。


 途中、ドアの隙間から声が聞こえた。

 誰かの唸り声。薬にやられている声。

 結衣は足を止めなかった。


 外の空気が欲しい。

 中森の顔を見て、言わなければならない。


 ――終わりじゃない。


 出入口の前まで辿り着いたとき、煙草の匂いがした。


 外灯の下に、中森がいた。

 煙を吐いて、結衣を見下ろしている。


「……ほらな」


 軽口のように言った。

 その軽口が、腹立たしいほど正確だった。


「来ると思った」


 結衣は睨み返そうとして、膝が崩れた。

 力が抜ける。痛みで身体が折れる。


 中森は近づいてこない。

 近づかないまま、結衣を眺めている。


「……お願…い……」


 結衣の声は掠れていた。

 それでも言った。言わなければならない。


「……力を……」


 中森は煙を吐き、しばらく黙った。


「……やめとけ」


「やめ…ない…」


 結衣は即答した。

 痛みで息が切れ、視界が滲む。それでも言う。


「……やめない…ここで…終わるくらい…なら、死ぬ方が…いい」


 中森は煙草を地面に落として踏み消した。

 靴底の音が、やけに大きい。


「ほんと面倒な女だな」


 中年の軽口。だが、笑いはない。

 呆れの中に、ほんの少しだけ、諦めが混じっている。


「力が欲しいんだろ」


「…欲し…い!」


「仇を討つために?」


「…それ以外に…何が…ある!」


 中森は結衣の前にしゃがみ込んだ。目線が近くなる。

 その距離で見ても、中森の目は揺れない。揺れないくせに、どこか疲れている。


「……じゃあ、条件を出す」


 結衣は顔を上げた。


「四十八時間」


 短い。


「その間だけ、全快させる」


 結衣の喉が鳴った。

 “全快”という言葉の甘さが、逆に恐ろしい。


「……代償…は」


 中森は肩をすくめた。


「時間が過ぎたら終わりだ。精神も肉体も朽ちる。戻らん」


 結衣は迷わなかった。


「…それで…いい」


 中森は、目を細めた。


「……お前な。普通は少し悩む」


「…悩む…時間が…無駄」


 結衣は言った。


「仇を…討たずに…生きる方が…私には…地獄だ」


 中森は小さく息を吐いた。深い息だ。

 それは諦めにも、後悔にも、似ていた。


「……感謝しろとは言わん」


 結衣は、頭を下げた。床に額がつくほど下げた。


「…ありが…とう」


 中森は、何も言わなかった。

 その沈黙が、逆に重かった。


 治療というより、投与だった。


 病室に戻され、腕に針が刺さる。

 透明な液体ではない。濁っている。薄い赤。鉄の色。残穢を精製した色だ。


 針が刺さった瞬間、結衣の身体が拒絶した。


 吐き気。

 痙攣。

 視界が一瞬で歪む。


 胸の痣が熱を持ち、亀裂が広がる感覚が走る。心臓が、内側から燃える。


「――っ!!」


 叫びが出た。出てしまった。

 痛みが、声を引きずり出す。


 腹が捩れる。喉が焼ける。

 血を吐いた。黒い血。薬と混じった血。


 時間感覚が壊れる。


 数分なのか、数時間なのか分からない。

 ただ、痛みだけが続いた。


 幻覚が混じる。


 兄の声がする。

 両親の声がする。

 血の匂いがする。


 視界の隅で、家の廊下が見えた。

 畳が見えた。

 あの日の家が、何度も立ち上がっては崩れる。


「……やめ…ろ……!」


 結衣は呻いた。

 誰に言っているのか分からない。


 自分に。

 薬に。

 残響に。

 それとも、過去に。


 吐血が続き、身体が跳ね、背中が反り返る。

 脳が焼ける。目の奥が熱い。涙が勝手に出る。


 そのまま、一日が過ぎた。


 朝。


 結衣は、呼吸していた。


 息を吸うと、痛みが少しだけ減っている。

 胸の痣は消えていない。だが、脈に合わせて噛みついてくる痛みが、鈍い。


 結衣は手を上げ、髪に触れた。


 指先に触れた髪が、異様に硬い。

 色が違う。


 白。


 銀色に近い白。


 結衣は鏡を探した。見つからない。代わりに、ガラスの反射で自分の顔を見た。

 目の下が落ちている。頬が痩せている。唇が白い。


 そして、髪が白い。


 ――時間を、買った。


 そう理解した瞬間、胸の奥が冷えた。


 四十八時間。

 その言葉が、刃みたいに浮かぶ。


 結衣はベッドから降りた。

 立てる。足が震えない。呼吸ができる。


 だが、全快の感覚は不気味だった。

 借り物の肉体。借り物の神経。借り物の時間。


 結衣は、握りしめた拳を見た。


 ――終わり方は選べる。


 選ぶ。


 仇を討つために。


 そして、結衣は理解した。

 最後に残るのは、希望じゃない。


 “期限”だ。


 期限の中でしか動けない自分。

 期限の外側には、朽ちる未来しかない自分。


 それでも、結衣は笑わなかった。

 ただ、静かに息を吸った。


 時間は動き出した。


 残り、四十八時間。

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