第22話 帰れない場所 その1 祈りを喰う家
中森からの情報は、いつも最低限だった。
『郊外。全寮制。カトリック系の女学校。深夜の礼拝堂で生徒が倒れる。外傷なし。原因不明。残響反応あり。牧師に憑いてる可能性が高い』
通話はそれだけで切れた。
余計な情緒も、心配もない。仕事の依頼と、条件提示だけ。
結衣は携帯を握ったまま、数秒だけ動かなかった。
子供が倒れる。
その言葉が、胃の奥に沈む。
嫌悪だ。怒りというより、反射に近い。
祈りが集まる場所に残響が寄るのは、珍しくない。
むしろ自然だ。人の願いは、弱い場所に集まる。弱い場所は、歪みやすい。歪めば、寄ってくる。
でも、よりによって女学校だ。
まだ“祈ること”の意味も知らない年齢の子が、祈りに巻き込まれる。
世界の仕組みを知らないまま、世界の深層に喉を掴まれる。
それが許せない、という感情ではない。
もっと冷たい。
――気持ち悪い。
自分の中にあるその言葉を、結衣は認めたくなかった。
けれど、認めるしかない。
気持ち悪い。
子供を媒体にする残響も。
それに巻き込まれて倒れていく子供の“弱さ”も。
そして何より、それを見て、胸の奥がざわつく自分自身も。
結衣はヘルメットを被り、バイクのエンジンをかけた。
夜の郊外は冷える。
ヘッドライトが道を舐め、街灯の薄い光が影を伸ばす。
女学校は、住宅地から少し外れた丘の上にあった。
石垣の向こうに、古い校舎と礼拝堂の尖塔が見える。
柵は高く、監視カメラもある。侵入を想定していないわけじゃない。
結衣は遠巻きに止まり、数分だけ観察した。
警備の巡回パターン。
カメラの死角。
センサーの反応域。
全寮制の学校は、外部侵入に敏感だ。
それでも人が見落とすものがある。人間の注意の偏り。ルーティンの癖。
結衣は、呼吸の回数を減らしていく。
感情を切る。
やることは単純だ。
入って、見て、判断して、終わらせる。
深夜二時。
校内は眠っていた。
寮の窓のいくつかに、小さな明かりが点いている。夜更かししている子がいるのだろう。
その光は、薄く震えて見えた。祈りの残滓に触れていると、こういう“揺れ”が見える時がある。
結衣は柵の影に身を沈め、巡回の背中が角を曲がるタイミングで動いた。
草を踏む音を消す。
靴底を地面に置く角度まで意識する。
やがて建物の裏手。古い窓。鍵は内側から補助錠がかかっているが、構造は単純だ。
工具で数秒。ガラスは割らない。割る音は残響より現実の方が厄介だ。
窓が開く。
結衣は身を滑り込ませた。
校内の廊下は、夜の匂いがした。
ワックスの匂い、古い木材の匂い、布の匂い。
その奥に、別の匂いが混じっている。
祈りの残滓。
目に見えないはずのものが、湿った埃のように漂っている。
鼻の奥が、微かに痛む。
寮の方角から、寝息が聞こえる。
子供の寝息は、無防備で、規則的だ。
その規則性が、怖い。
結衣は歩く。
息を殺し、足音を消し、影を踏むように進む。
礼拝堂の扉は、閉まっていた。
だが鍵は、内部からしかかからないタイプだ。夜間礼拝の後、施錠が甘いことはある。
結衣は耳を当てた。
――音がある。
低い声。
祈りの声だ。
そして、別の音。
小さな、布が擦れる音。誰かが膝を動かす音。
結衣は扉に指をかけ、隙間から中を覗いた。
礼拝堂の奥。祭壇の前に、女生徒が何人もいる。
十人以上。もっといるかもしれない。
全員、膝をついている。
頭を垂れ、祈る姿勢。
その姿勢が、あまりに揃いすぎていた。
呼吸のタイミングが、同じだ。
肩の上下が、同じだ。
手を組む角度まで、同じだ。
人間は、こんなに揃わない。
揃うなら、揃わせる“理由”がある。
祭壇の前に、牧師が立っていた。
背中だけが見える。
黒いローブ。白い襟。
だが、その背中には、影が重なっている。
人の影ではない。
肩幅が異様に広い。
背中が、厚い。
頭部には、歪な突起がある。
角。
礼拝堂の床を踏む足音が、重い。
石の床が、僅かに震えるような重さ。
空気の圧が変わっていく。
息を吸うと、肺が重くなる。耳の奥が詰まる。
そして、臭い。
牛の臭い。
土と血が混じった、濃い臭気。
結衣の胃が、きしんだ。
――牛鬼。
即断。
迷いはない。迷う時間はない。
この距離で祓詞は使えない。
祓詞を起動すれば、空間に波が立つ。生徒が気づく。残響が反応する。現実の女の子たちの神経が焼ける可能性がある。
現実で刃を振るえば、女生徒ごと斬る。
牧師の背に重なる影を斬っても、影が逃げれば、刃は生徒に落ちる。
結衣は静かに護符を取り出した。
指先が冷たい。
息を整える。
感情を切ったまま、言葉だけ落とす。
「……入る」
八咫刀で空間を切る。
紙が裂ける音が、礼拝堂の空気に吸い込まれた。
視界が反転した。
音が消えた。
礼拝堂の床が、足元から崩れた。
落ちる。
落ちるのに、風はない。
胃が浮く感覚だけが残る。
次の瞬間、鼻を突いたのは――畳の匂いだった。
結衣は立っていた。
玄関。
古い木造住宅。
低い天井。擦れた柱。欠けた靴箱。
足元の畳が、微かに沈む。
空気の温度が、礼拝堂とは違う。
湿り気のある生活の匂い。
「……は?」
言葉が、勝手に漏れた。
残響世界は、残響の内面を映す。
相手の記憶か、歪んだ願い。
自分の家が出る理由はない。
結衣は動けずに、玄関を見回した。
湯呑みがある。
新聞が畳まれている。
台所の方から、洗いかけの食器の水音が聞こえる気がした。
人が“普通に暮らしている”気配。
それが、気持ち悪いほど具体的だった。
結衣の喉が乾いた。
ここは、私の家だ。
かつて、家族と暮らしていた家。
死んだ家だ。
血と破壊の記憶で、染まった家。
もう二度と戻らない家。
なのに、今は、生活の温度がある。
結衣は、ゆっくりと家に入った。
廊下を進むたび、胸が軋む。
思い出が勝手に引きずり出される。
柱の傷。
敷居の擦れ。
玄関に置かれていた傘立て。
全部が、正確だ。
現実の記憶と、寸分違わない。
居間の襖が、半分開いていた。
その向こうに――背中があった。
机に向かう青年の背中。
学生鞄。
少し癖の残る髪。
結衣の喉が、凍った。
呼吸が止まる。
足の裏が冷える。
「……颯…お兄ちゃん…?」
呼んだ瞬間、胸の奥が痛んだ。
痛みが、呼び水みたいに過去を引きずり上げる。
青年は振り向かない。
「遅かったね」
声。
兄・佐々木颯の声だった。
「また、危ないことしてるんだろ」
責めるでもなく、咎めるでもなく。
当たり前の日常の延長みたいな口調。
結衣の胸に、違和感が落ちた。
――違う。
兄は、こんな言い方をしない。
心配はするが、先に結論を置かない。
まず結衣を見る。
結衣の顔色を見て、言葉を選ぶ。
兄は、そういう人だった。
結衣の足が、半歩だけ前に出た。
声が震える。
「……お兄ちゃん…。私……」
言葉を続けようとした瞬間、青年が少しだけ肩を動かした。
こちらを見ない。
振り向かない。
なのに、笑った気配だけがした。
その笑いが、兄のものじゃない。
背筋が冷える。
結衣は、刃の柄に手をかけた。
甘い日常の再現。
ここに留まれば、痛みは消える。
戦う必要はない。
その誘惑が、あまりにも露骨だった。
残響は、私をここに縛りたい。
私の中の“戻りたい”を餌にして、喰いたい。
結衣の目から、涙が溢れた。
止められない。
止めたくない。
家族と暮らしていた日々。
兄が笑っていた日々。
それが、ここにある。
偽物でも、ここにある。
結衣の心が、引き寄せられる。
――危ない。
このままじゃ、私は戻れなくなる。
結衣は、歯を食いしばった。
そして、気づく。
兄の言葉は、少しずつズレている。
兄の呼吸の間が、違う。
兄の声の温度が、足りない。
兄は、結衣の名前を呼ぶ。
必ず呼ぶ。
それが、呼ばれない。
呼ばれない理由は一つ。
これは、兄じゃない。
結衣は、悲痛な表情で刃を抜いた。
涙で視界が歪む。
手が震える。
でも、斬る。
「……ごめん」
独白が、畳に落ちる。
刃が振り下ろされた。
青年の背中が、音もなく裂けた。
血は出ない。
肉も裂けない。
代わりに、空間が軋んだ。
居間の壁が、波打つ。
畳が裂ける。
柱が歪む。
兄の姿は、崩れた。
崩れながら、最後にようやく振り向いた。
その顔は、颯ではなかった。
人の顔の皮を被った、“何か”の顔だった。
結衣の胃が、冷たくなる。
世界が、悲鳴を上げた。
礼拝堂に戻るための出口が、どこかで開く。
そして――
その向こうから、牛の臭いが、濃く流れ込んできた。
終わっていない。
ここからが、始まりだ。




