第21話 刃に選ばれた者 その5後編 戻れない夜
結衣が落ちた暗闇は、眠りではなかった。
落下だ。
底がない。
耳鳴りだけが続き、身体の感覚だけが薄く残る。
皮膚がある。痛みがある。だが、それが自分のものかどうかが曖昧になる。指先が自分の指先ではなく、遠い誰かの手のように感じる。呼吸をしようとして、肺が遅れてついてくる。
(……まだ、生きてる?)
問いが浮かんだ瞬間、脳裏に声が混じった。
《浄化》
誰の声でもない。
空間の癖みたいな声。
結衣はそれを噛み潰すように目を閉じた。閉じたはずなのに、視界はまだ白い。白い残光の中で、兄の顔が浮かぶ。
颯。
笑っていない。怒っていない。
ただ、遠くを見る目。
その目が、こちらを向く。
(やめろ)
言葉にしようとしても、舌が動かない。喉が乾いているのに、汗が冷たい。身体の内側だけが熱く、熱く、熱い。
八咫刀・滅の赤雷が、まだ体内を走っている。
刃は落ちた。
なのに、刃の熱は残っている。
残っているどころか、根を張っている。
(……これ、私から抜けない)
勝ったはずだ。
土蜘蛛は裂けて燃えた。
残響空間も裂けた。
なのに、結衣の内側には“斬った感触”だけが残っている。
切断面の感触。
手応え。
裂ける音。
燃える匂い。
それが、快感みたいに残っていることが一番気持ち悪かった。
(私は……)
続きを考えようとしたところで、視界が急に揺れた。
闇がほどけ、輪郭が戻る。
残響領域の底から、誰かが結衣の身体を掴んだ。
「……おい」
中森の声だった。
乾いた声。
いつもと同じ温度。
だけど、距離が近い。
結衣は返事ができない。
中森が舌打ちする。
「倒れ方が下手すぎる。勝った後に死ぬな。格好悪い」
軽口のはずなのに、笑えない。
結衣の身体は、ただ重い。
中森は結衣の肩を担ぎ上げた。
結衣の視界の端に、土蜘蛛だったものの残骸が見えた。
炭。
黒い粉。
糸の焦げた断片。
そこに、まだ小さく赤い火が灯っている。燃え残りではない。残穢だ。精錬できる種類の“残り滓”。
中森の足が、一瞬止まる。
それだけで結衣は分かった。
(……拾う)
拾うんだ。
金になる。道具になる。呪具になる。
結衣は喉の奥で笑いかけて、咳になった。
「……っ」
中森は肩越しに言った。
「喋るな。今喋ったら肺から血が出る」
結衣は薄く目を開けた。
「……私、勝った?」
「勝った。ギリギリな。お前が死なない程度に、世界ごと裂いた」
「……嫌味?」
「褒めてる。嫌味はもっと上手く言う」
中森は結衣を担いだまま、境界を抜ける。
残響世界の膜が破れ、現実の冷たい空気が肌に触れた。夜の匂いが戻ってくる。土の匂い、木の匂い、遠くの街の匂い。どれも薄い。全部が薄い。結衣の感覚が薄い。
中森が車のドアを開け、結衣を押し込む。
「寝ろ」
「……寝れない」
「じゃあ気絶しろ。楽だぞ」
中森はそう言って、ドアを閉めた。
車が動く。
揺れが内臓に響く。
結衣は意識の縁で、自分の身体が“空っぽ”になっていく感覚を聞いた。削られていく。奪われていく。刃に払った代償が、遅れて来ている。
(寿命……)
中森の言葉が脳裏で反響する。
精神と寿命を奪う。
奪われた分は戻らない。
戻らないのに、代わりに残るのは“斬る感触”だけだ。
結衣は目を閉じた。
そのまま、闇に落ちた。
⸻
次に目を開けた時、天井が白かった。
目が痛い。光が刺さる。
消毒液の匂いがする。薬の匂い。血の匂い。全部が混ざっている。
狭い部屋。
医療用のベッド。
点滴。
古いモニターの機械音。
闇医者の場所だと、すぐ分かった。
体を起こそうとすると、全身が軋んだ。筋肉が引きちぎれそうに痛い。骨が軋む。内臓が冷える。
「動くな。まだ壊れてる」
声がした。
中森が、壁際に立っていた。
相変わらずポーカーフェイスだ。心配している顔ではない。商売の顔だ。
結衣は息を吐く。
「……情けない」
中森は肩をすくめた。
「情けないのは今さらだろ。お前は元から破滅型だ」
結衣は唇を噛んだ。
「……武器に、振り回された」
言った瞬間、恥が胸に刺さった。
刃を持てば強くなれると思った。
覚悟があれば勝てると思った。
実際は違った。
刃は強い。
強すぎる。
そして、刃は使い手を選ばない。
“使えるかどうか”じゃない。
“喰えるかどうか”だ。
中森が淡々と言った。
「八咫刀・滅は、お前の中身を燃やす。燃えた分だけ赤雷になる。分かるか?」
結衣は答えなかった。
分かる。
分かりたくない形で分かる。
結衣は視線を落とした。
両手が微かに震えている。
恐怖で震えているんじゃない。
……斬りたがっている。
「……私、変になってる」
中森は笑わなかった。
「変にならなきゃ、ここまで来れない。そういうもんだ」
結衣は顔を上げた。
「……でも、恥ずかしい」
中森は小さく鼻で笑った。
「恥を感じられるうちは、まだ人間だ。
恥を感じなくなったら、ただの刃だ」
結衣の喉が鳴った。
「……私は、刃でいい」
中森は、その言葉に少しだけ間を置いた。
「言うな。軽くなる」
結衣は目を閉じた。
兄の顔が浮かぶ。
両親の声が浮かぶ。
血の匂いが浮かぶ。
復讐が、胸の奥で燃える。
その燃える感覚に、赤雷が同調する。
(……私の中は、もう)
結衣は自分の胸を押さえた。痛い。痛いのに、どこか気持ちいい。
中森が言った。
「次は、本丸が動く」
結衣は目を開けた。
「……鵺?」
中森は答えなかった。
代わりに、携帯を弄りながら言った。
「休め。使い物になる程度には回復させる。
……壊れる前提でな」
結衣は笑った。
「それでいい。最後まで使え」
自分の声が、乾いて聞こえた。
その乾いた声が、部屋の白い壁に吸い込まれていく。
外はまだ夜だった。
夜は、終わらない。
結衣は、もう知っていた。




