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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い

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第21話 刃に選ばれた者 その5前編 勝利よりも深い傷

結衣が戻ってきた時、空気は前より“湿って”いた。


夜露の湿り気じゃない。糸が増えた湿りだ。見えない繭が何層にも重なって、呼吸のたびに喉へ絡む。肺の奥に蜘蛛の脚が触れるような感触がして、唾を飲み込むたびに胸がむかついた。


境内の闇は同じはずなのに、色が違う。黒が濃い。黒の中に、さらに黒い筋が走っている。あれが糸の“道”だ。洗脳された人間の思念が通る、細い導線。


結衣は塀の影にしゃがみ、八咫刀・滅の柄を握り直した。


握った瞬間、掌の内側が熱を持つ。刃が熱いのではない。こちらの血が熱くなる。心臓の鼓動が一段上がり、背骨の内側を赤い火花が走った。


(……これ、重い!?)


重さは質量じゃない。重圧だ。刃が命を計量している。持つ者の中身を見て、足りない分を勝手に奪おうとする。


結衣は喉を鳴らした。


「……来た」


境界が薄い。足を踏み出しただけで精神領域が重なる。地面の土が生々しくなり、木の影が長く伸び、闇が粘る。寺の本堂の裏が、洞穴の口みたいに見えてくる。


前回は“土蜘蛛の気配”で済んでいた。今回は違う。領域が広がっている。つまり被害が進んでいる。


結衣は歯を食いしばった。


(私が逃げた間に、増えた)


境内の端、倒れていたはずの僧侶が立っている。いや、立たされている。首が不自然な角度で固定され、目が開いたまま焦点がない。首筋から糸が伸び、闇へ続く。神主もいる。何人もいる。人間が“糸の先の道具”になって、同じ方向へ歩かされている。


その方向は一つ。


裏手の祠が、壊され続けている。石が砕け、土に混ざり、祈りの残り滓が踏み潰されている。壊すこと自体が儀式だ。祈りを選別し、祈りを潰し、祈りを“自分の形”に統一する。


「……胸糞悪い」


言葉が漏れた瞬間、闇が笑った。


音じゃない。空間が笑う。


糸が揺れ、視界の端に無数の脚が立ち上がる。一本、二本、三本……蜘蛛の脚。だが、脚の付け根が人間の関節みたいに歪んでいる。硬い脚が地面を叩くたび、土が沈み、空気が粘る。


そして、現れた。


土蜘蛛。


巨大な蜘蛛の腹の下に、人間の背中が折り重なる。胴の一部が人の胸郭で、そこに肋骨の線が浮き出ている。腕が蜘蛛の脚の付け根に縫い込まれて、指先が痙攣している。顔がある。だが定まらない。笑っているのに、次の瞬間には別の顔に変わる。寄せ集めた肉の集合体が、蜘蛛の輪郭に無理やり押し込まれている。


結衣の胃がひっくり返りそうになった。


蜘蛛が嫌いなのは“怖い”からじゃない。身体が拒否する。理解する前に拒否する。理屈でどうにもならない、最悪の不快。


土蜘蛛の中心で、男の声がした。


《戻ってきたか》


蘆塚忠右衛門、名は知らない。だが、“格”と“臭い”は分かる。天草四郎の配下。鵺の分体。門番。


《逃げた女が、何を切りに来た》


結衣は刃を構える。


「……うるさい!」


《まだ分からんか。お前は刃を持っているだけだ。刃の主にはなれん》


蜘蛛脚が地面を叩く。糸が一斉に張られる。


境内に立つ僧侶と神主が、同時に口を開いた。


《……浄化……浄化……》


声が揃っている。まるで合唱だ。祈りの真似事をして、祈りを殺す儀式。


結衣の喉が締まる。


(このままにしたら、増える)


結衣は踏み込んだ。


八咫刀・滅の刃が赤く鳴る。赤雷が刃の周囲を走り、空気が焦げる匂いを帯びる。持つだけで身体が持っていかれる感覚がある。心臓が刃に引っ張られ、呼吸が遅れる。


(……制御しろ)


結衣はあえて“滅殺の祓詞”を使わなかった。灼滅は最後だ。あれは一度で終わる。自分も終わる。今ここで使うべきじゃない。使っていいのは、確実に本丸へ届く瞬間だけ。


まずは通常の祓詞。いつもの型で、構造を切る。


結衣は短く詠んだ。


刃が走る。


——だが、遅い。


糸が先に絡む。足首に、膝に、腰に、指に。蜘蛛の糸は物理じゃない。命令だ。思念の拘束だ。縛られた瞬間、身体が“動くべき方向”を勝手に決められる。


結衣は歯を食いしばり、刃で糸を断つ。


切れる。切れるが、増える。


糸の断面から、子蜘蛛が噴き出した。指先ほどの黒い粒が、波みたいに広がる。床を覆い、壁を這い、天井へ散る。虫のような速さじゃない。“目的を持った速さ”だ。


土蜘蛛が笑った。


《斬れ。斬れば斬るほど、増える》


結衣の視界の端で、倒れていた死体が起きた。


一体、二体、三体。


子蜘蛛が死体の口から潜り、眼へ潜り、耳へ潜り、内側から糸を張り直す。死体が歩く。死体が“祈り”を口にする。死体が祠へ向かう。


結衣は舌打ちした。


(最悪)


斬れば救える。斬らなければば増える。だが斬るほど増える。


相手は“斬る者”を前提に組んでいる。


土蜘蛛の胴体が揺れ、蜘蛛脚が一斉に叩きつけられた。


衝撃が来る。


結衣の身体が吹き飛ぶ前に、糸が背中を引いた。地面へ叩きつけられる。肩が痛い。皮膚が裂ける。痛みが走る。現実の痛みが混ざる。精神だけじゃない。こちらの肉体まで引っ張ってくる強度だ。


「……っ!」


結衣は立ち上がろうとして、足が滑る。


床一面、糸。糸の上に子蜘蛛。子蜘蛛の上に死体。全部が“蜘蛛の支配下”だ。


土蜘蛛の声が低くなる。


《巫。お前の“祈り”は偽物だ。主の祈りだけが正しい》


結衣は笑えなかった。


(正しいって言葉、便利だね…)


正しいと言えば、殺せる。正しいと言えば、迷わない。正しいと言えば、罪悪感が消える。


あの自称・祓い師と同じ匂いがした。正義の皮を被った暴力。


結衣は八咫刀・滅を握り直し、赤雷の走り方を抑えようとした。


刃が、勝手に熱を上げる。


(抑えろ)


抑えようとした瞬間、胸の奥が焼けた。刃が“逆らうな”と言っている。刃が、こちらの精神を削って言うことを聞かせようとしている。


結衣の視界が一瞬滲んだ。


その滲みの中に、兄の顔が混じる。


颯。


振り向いた顔。泣いていない。怒っていない。ただ、何かに引きずられている顔。


(……来るな)


結衣は思考を振り払う。


だが土蜘蛛は嗅ぎつけたみたいに笑う。


《穴があるな。そこから縛れば、お前はすぐに落ちる》


糸が伸びる。


結衣の胸の奥に、糸の感触が触れかけた。


結衣は咄嗟に刃を振った。


祓詞を叩き込む。通常の型。紫電で切り、構造を断ち、縄をほどく。


——のはずだった。


赤雷が走った。


刃から赤い閃光が伸び、空間を裂いた。雷鳴みたいな音が遅れて来る。遅れて来る音の前に、世界が壊れる。


土蜘蛛の胴体が、横一文字に裂けた。


裂けた断面から、炎が立ち上がる。


赤い炎。いや、炎の形をした情報の燃焼だ。糸が燃える。子蜘蛛が燃える。死体に残った残響が燃える。祠を踏み潰そうとしていた僧侶が崩れ落ち、口から黒い糸を吐いて倒れた。


だが、土蜘蛛はまだ死なない。


裂けた胴体が、子蜘蛛へ分解しようとする。逃げる。逸らす。前回と同じ手だ。


結衣の喉が鳴った。


(逃がすな)


結衣は追撃しようとして、腕が上がらなかった。


赤雷の余波が、結衣の内側を焼いていた。熱い。熱いのに冷たい。心臓がひゅっと縮む。息が吸えない。


(……これ、普通に振っただけで、持ってかれる)


刃が強すぎる。身体が追いつかない。精神が追いつかない。


土蜘蛛が再構成を始める。


床の子蜘蛛が集まり、糸が束になり、再び胴体を作り直す。集まるたび、境内の闇が濃くなる。


結衣は歯を食いしばり、立ち上がった。


「……まだだ」


刃を構える。


もう一度、通常の祓詞。型は同じ。だが今度は、赤雷を“意図して”通す。刃に任せるな。刃を使え。刃に使われるな。


結衣は呼吸を整えた。


(一撃で終わらせる)


踏み込む。


土蜘蛛の脚が、結衣の脇腹を裂いた。痛みが走る。血が出る。赤い温度が皮膚を伝う。


結衣は怯まない。


(怯んだら、終わる)


結衣は祓詞を叩き込んだ。


赤雷が、刃から迸る。


一閃。


今度は、土蜘蛛が分解する前に裂けた。


真っ二つ。


切断面から炎が噴き上がり、胴体の中に詰まっていた“人の名残”が一瞬だけ見えた。背骨、肋骨、顔の断片。叫び声の形。祈りの断片。全部が同時に燃える。


土蜘蛛は、声にならない声を出して崩れた。


そして、斬撃の余波が止まらない。


赤雷が空間を走り、糸の膜を裂く。洞穴の壁が割れ、天井が裂け、土が崩落する。残響世界の“床”が割れて、その下にさらに黒い層が見える。


世界が裂ける。


結衣の耳がキーンと鳴り、視界が白く染まった。


勝った、という実感が湧く前に、身体の力が抜けた。


膝が折れる。


刃を握る指先が冷える。


(……やった?)


問いが浮かんだ瞬間、意識が滑った。


八咫刀・滅が手から落ちる感触だけが、やけに鮮明だった。


赤雷の残光が、視界の端で細く揺れた。


それが、誰かの笑い声に見えた。


結衣は、暗闇に沈んだ。

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