第21話 刃に選ばれた者 その3 逃げた刃
結衣が異変に気づいたのは、現場に入ってからだった。
糸の匂いがする。
甘ったるい。
血の匂いじゃない。線香でもない。
祈りが腐ったときにだけ残る、あの粘ついた臭気。
「……遅い」
呟いた声は、自分に向けたものだった。
すでに何人もやられている。
僧衣のまま壁に縫い付けられた坊主。
賽銭箱の前で膝を折り、口を開けたまま動かなくなった神主。
どれも即死じゃない。
逃げる時間はあったはずだ。
だが、糸が絡んだ瞬間に“考える余地”を奪われている。
洗脳。
いや、もっと原始的だ。
「……縛るのが、好き」
結衣は八咫刀を構えた。
精神世界が、じわりと重なる。
床が土に変わり、天井が洞穴の奥へと引き延ばされていく。
出てきた。
巨大な影。
だが、輪郭は定まらない。
蜘蛛だ。
間違いない。
だが、脚の数がおかしい。
胴体が歪んでいる。
よく見れば、それは一つの身体じゃなかった。
人の背中。
人の腹。
人の腕。
無理やり折り重なって、蜘蛛の形に“見せている”。
「……気持ち悪い」
本音が漏れた。
影が笑った。
土蜘蛛――蘆塚忠右衛門は、喋らなかった。
だが、嘲笑ははっきり伝わってくる。
《遅い》
《足りない》
《お前では無理だ》
結衣は踏み込んだ。
八咫刀が黒い軌跡を描く。
祓詞を乗せ、胴体を横一文字に断つ。
――斬れた。
手応えがあった。
確かに切った。
だが、次の瞬間。
ばらけた。
胴体が無数の子蜘蛛に分解され、床と壁と天井へ一斉に散る。
「……っ!」
糸が来る。
視界を遮り、足を縛り、思考を絡め取る。
結衣は歯を食いしばり、刃を振るう。
だが、斬っても斬っても終わらない。
子蜘蛛が、死体に潜り込む。
動かなかったはずの坊主が、ぎくりと首を動かした。
「……やめろ」
声が震えた。
土蜘蛛が“笑う”。
《ほら》
《お前が斬らなかったから》
《増える》
糸が肩を裂いた。
次に脚。
次に腹。
痛みはある。
だが、それよりも――
「……動け」
体が、言うことを聞かない。
恐怖じゃない。
蜘蛛が怖いからじゃない。
理解してしまったからだ。
今の自分では、
この程度の分体すら、完全には滅ぼせない。
八咫刀は、斬る器だ。
だが、出力が足りない。
結衣は舌打ちし、刃を振り払った。
糸を断ち切り、現実へと強引に戻る。
最後に見えたのは、
再び一つに集まり直す土蜘蛛の影。
嘲るように、ゆっくりと脚を持ち上げていた。
――逃げた。
現実世界に戻った瞬間、膝が折れた。
呼吸が乱れる。
視界が白む。
「……くそ」
悔しさじゃない。
怒りでもない。
ただ、事実が重い。
鵺どころか、
その門番にも届かない。
結衣は、地面に手をついたまま、歯を噛み締めた。
「……足りない」
自分の力が。
覚悟が。
何かが。
その背後で、携帯が鳴る。
中森だと分かっていた。
結衣は出なかった。
だが、もう決めている。
このままじゃ、兄の仇には辿り着けない。
土蜘蛛の嘲笑が、まだ耳に残っていた。




