第21話 刃に選ばれた者 その1 糸で作られた救済
最初に異変が起きたのは、寺だった。
山裾にある古い寺院。観光地化していない、地元の人間が手を合わせに来るだけの、地味な場所。夜は真っ暗になる。街灯も少ない。虫の声がやけに大きく聞こえる。
若い僧侶は、夜の巡回を終え、庫裏へ戻ろうとして足を止めた。
境内の端——本堂の裏。
そこに、誰かが立っている。
黒い服。古い脚絆。背は高く、姿勢が妙に綺麗だ。髪は濡れたように額へ張りつき、目元が影に沈んでいる。夜目でも分かるほど、白い顔。
「こんばんは」
僧侶が声をかけた瞬間、喉がひきつった。言葉に温度がない。声ではなく、空気が振動しただけに近い。
男は笑った。
笑顔なのに、口元の筋肉だけが動いている。眼は笑わない。
そして、男の口から細い糸が一筋、吐き出された。
糸は空中を泳ぎ、僧侶の額へ触れた。
触れた瞬間、僧侶の意識が“滑った”。
世界が一段薄くなる。音が遠のき、足元が浮く。自分の身体が、自分のものではなくなる。頭の中に、知らない言葉が流れ込む。
——浄化。
——背く者。
——祈りを偽る者。
——捧げよ。
(……何だ、これ)
思考が立ち上がる前に、糸がもう一本、首筋へ絡んだ。
僧侶の視界に、境内の片隅が映る。
神棚ではない。仏具でもない。
小さな祠がある。地元の古い神。寺の敷地に残っているだけの、誰も気にしない石の社。
僧侶の口が勝手に開いた。
「……偽り」
声が自分の声ではない。
心臓が早鐘を打つ。だが恐怖が、上手く出てこない。恐怖を感じる前に、命令が先に来る。
男が、淡々と告げた。
《踏み潰せ。祈りを混ぜるな》
僧侶は、祠へ向かって歩き出した。止まれない。足に自分の意志がない。
石の社を蹴ろうとした瞬間——背後で、別の足音がした。
神主がいた。
夜の見回りをしていたのか、手に懐中電灯を持っている。光が揺れ、二人の顔を照らす。
「……何をしている」
神主が僧侶に近づく。僧侶は涙が出そうになった。助けてと言えない。声が出ない。言葉が命令に上書きされている。
男が、また糸を吐いた。
糸は神主の腕へ絡み、皮膚の下へ沈むように消えた。
神主の眼が、空っぽになる。
二人は、同時に祠へ向かった。
同時に、石を踏み潰した。
乾いた音が夜に響き、
その瞬間、境内の闇が“濃く”なった。
男の足元から、黒い影が滲む。
影は膨らみ、脚になる。
一本、二本、三本……人間の脚ではない。
細く硬い脚が地面を叩き、土を掴む。
男の背中が割れた。
皮膚の下から、蜘蛛の腹がせり上がる。
それは妖怪の姿に似ている。だが、ただの怪物ではない。
どこか、人間の形を残したまま“蜘蛛の概念”に変換されたもの。
僧侶と神主の頭の中に、同じ声が響く。
——キリシタンではない者を狩れ。
——祈りを奪え。
——偽りを焼け。
寺の裏手で、呻き声がした。
既に倒れている人間がいる。地元の老人か、巡回の警備員か。顔が見えない。首のあたりから、細い糸が何本も伸びている。
糸の先には、子蜘蛛がいた。
指先ほどの黒い子蜘蛛。
だが、その動きは虫ではなく“意思”だった。
子蜘蛛が死体の口へ潜る。
眼へ潜る。
耳へ潜る。
そして、死体が起き上がった。
死体が、僧侶と神主と同じ方向を向く。
無表情で、歩き出す。
男——蘆塚 忠右衛門が、低く笑った。
《増やせ。祈りは、数だ》




