第20話 喰われる塔、飢えの手足 その3 縁が薄れる音
エレベーターの扉が閉まる音は、やけに鈍かった。
金属が噛み合うはずの音が、途中で湿気を含んだ布に包まれたように失速する。
結衣は無意識に、八咫刀の柄に触れていた。
冷たい。
それだけが、はっきりしている。
上昇が始まる。
表示灯の数字が、ひとつずつ増えていく。
十階。
二十階。
三十階。
(……遅い)
そう思った直後、結衣は自分の感覚を疑った。
速度計は正常だ。
耳鳴りもない。
なのに、身体だけが置き去りにされているような錯覚がある。
胸の奥が、じわりと薄くなる。
(……まただ)
最近、よくある。
疲労とも違う。
怪我でもない。
“抜け落ちる”感覚。
エレベーター内には、他に誰もいない。
だが、背後に気配がある気がして、結衣は振り返った。
――誰もいない。
それでも、
「いたはずの誰か」が、今はいない。
そんな不在感だけが残る。
表示灯が、最上階を示した。
扉が開く。
空気が、変わった。
冷たいわけでも、暑いわけでもない。
ただ、重い。
肺に入る空気が、ひと呼吸遅れて意味を持つ。
吸った、という事実だけが、先に来る。
「……」
声を出そうとして、やめた。
音が、信用できない。
展望フロアは、広い。
だが、広さが距離を生んでいない。
端まで見えているのに、
そこへ行ける気がしない。
床に、何かが落ちている。
靴。
バッグ。
スマートフォン。
――持ち主だけが、いない。
結衣は一歩、踏み出した。
足音が、鳴らなかった。
いや、
鳴ったはずなのに、
“届かなかった”。
(……私は…歩いてるのか?)
その疑問が浮かんだ瞬間、
胸の奥が、ひとつ削れた気がした。
記憶が、ではない。
感情が、でもない。
もっと手前――
「自分がここにいる理由」そのものが、薄くなる。
八咫刀が、微かに震えた。
敵を示す震えではない。
警告とも違う。
――つながりが、減っている。
そんな感覚だけが、伝わってくる。
結衣は歯を食いしばった。
「……関係ない」
八咫刀は、残響を斬るためのものだ。
自分を削るためのものじゃない。
そう、分かっている。
それでも。
フロアの中央に近づくにつれ、
“音”が消えていく。
風の音。
街のざわめき。
遠くのサイレン。
すべてが、途中で途切れる。
結衣は、思い出そうとした。
ここへ来る前、
誰と、どんな会話をしたか。
……中森。
……電話。
……指示。
それ以外が、曖昧だ。
胸の奥が、ざらつく。
思い出せないわけじゃない。
ただ、必要ないものとして弾かれている。
人の名前。
顔。
声。
ここでは、役に立たない。
「……ふざけるな」
結衣は、低く呟いた。
その瞬間。
奥のほうで、
何かが咀嚼する音がした。
ぐちゃり、という湿った音。
骨が砕ける、鈍い感触。
結衣は、即座に八咫刀を抜いた。
紫電が、刀身を走る。
光が、闇を裂いた。
その先で、
何かが動いた。
人の腕。
人の脚。
だが、位置が合わない。
長すぎる。
不自然に、伸びている。
床に這いつくばる“それ”の背後で、
もう一つの影が、天井近くを移動していた。
結衣は、息を呑んだ。
(……二体)
理解より先に、身体がそう判断する。
床に散らばるものが、食い散らかされている。
順序も、意味もない。
ただ、
飢えたまま、喰った痕跡。
結衣の胸が、嫌な音を立てた。
これは、
何かを集めているわけじゃない。
選んでいない。
比べていない。
――ただ、捕食している。
終わらない飢え。
八咫刀が、重くなる。
重さは、刃の分じゃない。
“背負うもの”が、増えている。
結衣は、刀を構えた。
逃げ道はない。
引き返す理由もない。
ここで斬らなければ、
下にいる人間が、次に来る。
「……来い」
声は、震えていなかった。
ただ、
胸の奥で、何かがまた一つ、音もなく欠けた。
結衣は、それを無視して、
前へ踏み込んだ。




