第19話 正義は首を括る その2 首を括らせる正義
棚谷真一郎は、眠れなくなっていた。
眠ろうとすると、音がする。
耳鳴りではない。もっと具体的な音だ。
――軋む。
どこかで、縄が擦れる音。
目を閉じると、首の皮膚が引きつる感覚がある。
自分の首ではない。
他人の首だ。
「……クソ」
電気をつける。
部屋は明るい。
何もない。
黒いナイフは、机の上に置いてある。
鞘に収めてもいないのに、刃が光らない。
棚谷は、ナイフを手に取った。
冷たい。
だが、以前より“重い”。
重さの正体は分からない。
金属の重量じゃない。
もっと、湿った何かだ。
「……気のせいだ」
呟くと、少し楽になる。
気のせい。
全部、疲れだ。
動画は、毎日伸びている。
『先生』『救済者』『本物』
コメント欄は、もう議論の場ではない。
信仰の場になっていた。
『否定するやつは見なきゃいい』
『先生を疑うやつは人間じゃない』
棚谷は、そこに返信しない。
だが、消しもしない。
消せば、「自分が間違っている可能性」を認めることになる。
それは、できなかった。
次の依頼は、若い女性だった。
『夜、首が苦しいんです』
通話越しの声は、掠れていた。
『誰かに、見られてる気がして……』
棚谷は、深く考えなかった。
いつものパターンだ。
黒いナイフを持って、訪ねる。
影を見る。
斬る。
終わる。
そのはずだった。
部屋に入った瞬間、空気が違った。
重い。
湿っている。
壁際に、影があった。
前と同じだ。
人の形。
だが――
「……首?」
影の首が、異様に長い。
天井から、何かが垂れている。
縄だ。
影の首と、縄が、繋がっている。
「……っ」
棚谷の喉が、無意識に鳴った。
ナイフを握る。
手が震える。
「だ、大丈夫です」
女性は、必死に笑おうとしている。
「先生が来てくれたから……」
その言葉で、背中が押された。
棚谷は、影に向かってナイフを振るった。
斬れた。
影は、音もなくほどける。
縄だけが、床に落ちた。
女性は、その場に崩れ落ちて泣いた。
「……助かった……」
いつも通りだ。
だが、棚谷は、背中に視線を感じた。
振り返っても、何もない。
なのに、確実に“いる”。
その夜、動画を投稿した。
再生数は、過去最高だった。
『先生がいなかったら死んでた』
『アンチは全員、恥を知れ』
その中に、ひとつだけ異質なコメントがあった。
『救いって、誰が決めるんですか』
棚谷は、そのコメントを消した。
理由は、分からない。
反論できなかったからかもしれない。
数日後、そのアカウントが消えた。
正確には――
その人物が、消えた。
ニュースに小さく載った。
『動画配信者を中傷していた男性、自宅で首吊り』
棚谷は、記事を読みながら、手が震えるのを感じた。
「……関係ない」
何度も、そう言い聞かせる。
自分は、何もしていない。
斬ったのは、影だ。
苦しみだ。
呪いだ。
人を殺したことは、一度もない。
そう思った瞬間、背後で音がした。
――きゅ。
棚谷は、ゆっくり振り返った。
部屋の隅に、影が立っていた。
今まで見てきたものとは、違う。
人の形をしている。
だが、首がない。
正確には、首が“上に引っ張られている”。
天井へ。
見えない何かに。
影が、棚谷を見ていた。
目は、ない。
口も、ない。
それでも、分かった。
――肯定だ。
「……俺は……」
声が、震える。
「間違ってないよな……?」
影は、動かない。
だが、天井から、無数の縄が垂れた。
首を探すように。
「……違う……」
棚谷は、後退した。
「俺は、助けてる……」
影が、ゆっくり近づく。
その背後で、誰かの声が重なった。
《正義は、否定されると怒る》
《怒りは、首を欲しがる》
棚谷は、耳を塞いだ。
「……うるさい……」
《正しいと信じる者ほど、縛りたがる》
ナイフが、震えた。
黒い刃に、影が映る。
そこに映っていたのは――
棚谷自身だった。
首に、縄をかけて。
「……違う……!」
棚谷は、ナイフを振り回した。
影は、斬れない。
代わりに、部屋の壁に、爪痕のような傷が残る。
翌日。
動画を否定していた別の人物が、死んだ。
首を吊って。
棚谷の動画のコメント欄には、こう書かれていた。
『先生を疑うからだ』
『正義が裁いた』
棚谷は、画面を見つめながら、震えていた。
怖かった。
だが、それ以上に――
逃げ場がないことが、分かっていた。
今さら、やめられない。
やめた瞬間、
「否定する側」に回る。
その時、
縄は、自分の首に来る。
背後で、影が囁いた。
《あなたは、選ばれた》
《裁く側だ》
棚谷は、ゆっくりと、頷いた。
「……そうだ」
自分に言い聞かせるように。
「俺が、正しい」
影は、完全に棚谷の背後に立った。
その首は、
もう、天井に引かれていない。
棚谷の肩越しに、
同じ高さで、立っていた。
――縊鬼。
棚谷は、その名前を知らない。
ただ、確信だけがあった。
これから先、
自分を否定する者は、
“救われない”。
それが、
正義だからだ。




