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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)  作者: みえない糸
第2章 殺すことを選んだ祓い

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第18話 喰われていく縁 その5 戻れない側の席

夜明け前の路地。


結衣は、狒々の残響を断った場所に立っていた。

血の匂いは、ほとんど消えている。

だが、完全ではない。


残穢は、残る。


煙のようで、霧でもなく、

人の感情だけが燃え尽きて沈殿した、粘ついた澱。


結衣は、それを見ていた。


そして――

見ないふりをしてきた。


少し離れた場所。

街灯の下に、人影がある。


派手さはない。

気配が薄いわけでもない。


ただ、**“邪魔をしない立ち方”**をしている。


結衣は、その立ち方を知っていた。


初めてじゃない。


過去にも、何度か。

残響を断った現場の端。

警察が来る前。

自分が立ち去った後。


いつも視界の端に、「いたかもしれない」影。


結衣は、深く息を吸った。


――中森の回収係。


そう呼ぶしかない存在。


人影は、ゆっくりとしゃがみ込む。

黒い布で包んだ器具を取り出し、地面に触れる。


掬っている。


残穢を。


結衣の指が、八咫刀の柄を強く握った。


今までは、見なかった。

気配を感じても、視線を逸らした。

「仕事の後始末」だと、自分に言い聞かせて。


だが――


水相多恵の顔が、脳裏をよぎる。


残響空間で、怯えながらこちらを見ていた目。

それなのに、誰か分からないという反応。


――あれは、何だ。


結衣は一歩、踏み出した。


近づける距離だ。

声をかけられる。

問いただせる。


その瞬間。


ポケットの中で、携帯が震えた。


着信。


見なくても分かる。


結衣は舌打ちを押し殺し、通話を取った。


「……何」


『そこにいるな』


中森の声。


位置を言っていない。

説明もない。


それだけで、見られていると分かる声だった。


結衣は、回収係から視線を外さずに言った。


「今、回収してる」


一拍。


『見なくていい』


即答だった。


結衣の喉が、熱くなる。


「……多恵の件があった」


声が、僅かに低くなる。


「今まで通りで済ませろ、って話じゃない」


回収係が、器具を動かす手を止めた。


ほんの一瞬。

こちらを意識した気配。


だが、振り向かない。


中森の声が、少しだけ間を置いて返ってきた。


『…急がんと、次に間に合わんぞ』


軽口に近い。

だが、笑いはない。


『お前がやるのは“斬ること”だ』


『拾うのは、俺の仕事だ』


結衣は、歯を食いしばった。


「……それが、何に使われてるかも?」


沈黙。


長くはない。

だが、中森が即答しなかったという事実が、重い。


『知る必要はない』


その一言で、線が引かれた。


『お前は、滅す側だ』


結衣の指から、力が抜ける。


回収係が、再び動き出した。

残穢が、空気から消えていく。


結衣は、それを見送った。


追える。

止められる。


それでも――


「……分かった」


自分の声が、妙に遠く聞こえた。


『……帰れ』


通話が切れる。


結衣は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


回収係は、何事もなかったように立ち上がり、

街灯の外へ歩いていく。


一度も、こちらを見なかった。


それが、逆に腹立たしかった。


結衣は踵を返した。


見ない。

追わない。


そう決めてきたはずなのに。


多恵の件が、

その“決めてきたこと”を、確実に揺らしていた。


――


歩道橋の下で、

若い夫婦が立ち止まっていた。


子どもが、ぐずっている。

母親がしゃがみ、笑いながら宥める。

父親が、困った顔で頭を掻く。


ありふれた光景。


結衣は、それを見て、

胸の奥が、少しだけ痛んだ。


(……ああいうの)


自分には、ない。


ああいう日常に戻れるはずがない。


朝起きて、

仕事に行って、

誰かと笑って、

夜に眠る。


そんな生活は、

八咫刃を手にした時点で終わっている。


終わったのに、

世界は続いている。


それが、

ひどく寂しい。


羨ましい、とは違う。

憎しみでもない。


ただ、

自分がもう属さない場所を見ている感覚。


(……戻れない)


戻れないと分かっているから、

未練を持つのは無駄だ。


結衣は視線を逸らし、

夜明け前の空を見上げた。


灰色の雲。

薄く、光が滲んでいる。


八咫刃を使い続ければ、

心は確実に壊れていく。


それは、恐怖ではない。

事実だ。


中森は、それを知っている。

梓も、薄々察しているはずだ。


それでも、

誰も止めない。


止めれば、

代わりに斬る者がいない。


(……いい)


結衣は、静かに思う。


自分が壊れて、

最後に死ぬなら。


それでいい。


両親に、

兄に、

謝れれば、それでいい。


「……ごめん」


小さく呟く。


誰に向けた言葉かは、分からない。


謝罪は、

許しを求めるものではない。


ただ、

自分が選んだ道を、

自分で引き受けるための言葉だ。


結衣は、八咫刃の柄を強く握った。


冷たい感触が、

確かにそこにある。


これが、

自分の選択。


復讐の先に、

何もなくてもいい。


何も残らなくてもいい。


ただ、

終わらせる。


兄を奪ったものを。

世界を歪めるものを。


そして、

自分自身を。


結衣は歩道橋を降り、

バイクに跨がった。


エンジンをかける。


音が、世界を現実に引き戻す。


もう迷わない。


全てを捨てる覚悟は、

とっくにできている。


斬るために生き、

斬り終えたら、死ぬ。


それでいい。


それしか、

自分には残っていない。


結衣はアクセルを開け、

朝に向かって走り出した。

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