第18話 喰われていく縁 その5 戻れない側の席
夜明け前の路地。
結衣は、狒々の残響を断った場所に立っていた。
血の匂いは、ほとんど消えている。
だが、完全ではない。
残穢は、残る。
煙のようで、霧でもなく、
人の感情だけが燃え尽きて沈殿した、粘ついた澱。
結衣は、それを見ていた。
そして――
見ないふりをしてきた。
少し離れた場所。
街灯の下に、人影がある。
派手さはない。
気配が薄いわけでもない。
ただ、**“邪魔をしない立ち方”**をしている。
結衣は、その立ち方を知っていた。
初めてじゃない。
過去にも、何度か。
残響を断った現場の端。
警察が来る前。
自分が立ち去った後。
いつも視界の端に、「いたかもしれない」影。
結衣は、深く息を吸った。
――中森の回収係。
そう呼ぶしかない存在。
人影は、ゆっくりとしゃがみ込む。
黒い布で包んだ器具を取り出し、地面に触れる。
掬っている。
残穢を。
結衣の指が、八咫刀の柄を強く握った。
今までは、見なかった。
気配を感じても、視線を逸らした。
「仕事の後始末」だと、自分に言い聞かせて。
だが――
水相多恵の顔が、脳裏をよぎる。
残響空間で、怯えながらこちらを見ていた目。
それなのに、誰か分からないという反応。
――あれは、何だ。
結衣は一歩、踏み出した。
近づける距離だ。
声をかけられる。
問いただせる。
その瞬間。
ポケットの中で、携帯が震えた。
着信。
見なくても分かる。
結衣は舌打ちを押し殺し、通話を取った。
「……何」
『そこにいるな』
中森の声。
位置を言っていない。
説明もない。
それだけで、見られていると分かる声だった。
結衣は、回収係から視線を外さずに言った。
「今、回収してる」
一拍。
『見なくていい』
即答だった。
結衣の喉が、熱くなる。
「……多恵の件があった」
声が、僅かに低くなる。
「今まで通りで済ませろ、って話じゃない」
回収係が、器具を動かす手を止めた。
ほんの一瞬。
こちらを意識した気配。
だが、振り向かない。
中森の声が、少しだけ間を置いて返ってきた。
『…急がんと、次に間に合わんぞ』
軽口に近い。
だが、笑いはない。
『お前がやるのは“斬ること”だ』
『拾うのは、俺の仕事だ』
結衣は、歯を食いしばった。
「……それが、何に使われてるかも?」
沈黙。
長くはない。
だが、中森が即答しなかったという事実が、重い。
『知る必要はない』
その一言で、線が引かれた。
『お前は、滅す側だ』
結衣の指から、力が抜ける。
回収係が、再び動き出した。
残穢が、空気から消えていく。
結衣は、それを見送った。
追える。
止められる。
それでも――
「……分かった」
自分の声が、妙に遠く聞こえた。
『……帰れ』
通話が切れる。
結衣は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
回収係は、何事もなかったように立ち上がり、
街灯の外へ歩いていく。
一度も、こちらを見なかった。
それが、逆に腹立たしかった。
結衣は踵を返した。
見ない。
追わない。
そう決めてきたはずなのに。
多恵の件が、
その“決めてきたこと”を、確実に揺らしていた。
――
歩道橋の下で、
若い夫婦が立ち止まっていた。
子どもが、ぐずっている。
母親がしゃがみ、笑いながら宥める。
父親が、困った顔で頭を掻く。
ありふれた光景。
結衣は、それを見て、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
(……ああいうの)
自分には、ない。
ああいう日常に戻れるはずがない。
朝起きて、
仕事に行って、
誰かと笑って、
夜に眠る。
そんな生活は、
八咫刃を手にした時点で終わっている。
終わったのに、
世界は続いている。
それが、
ひどく寂しい。
羨ましい、とは違う。
憎しみでもない。
ただ、
自分がもう属さない場所を見ている感覚。
(……戻れない)
戻れないと分かっているから、
未練を持つのは無駄だ。
結衣は視線を逸らし、
夜明け前の空を見上げた。
灰色の雲。
薄く、光が滲んでいる。
八咫刃を使い続ければ、
心は確実に壊れていく。
それは、恐怖ではない。
事実だ。
中森は、それを知っている。
梓も、薄々察しているはずだ。
それでも、
誰も止めない。
止めれば、
代わりに斬る者がいない。
(……いい)
結衣は、静かに思う。
自分が壊れて、
最後に死ぬなら。
それでいい。
両親に、
兄に、
謝れれば、それでいい。
「……ごめん」
小さく呟く。
誰に向けた言葉かは、分からない。
謝罪は、
許しを求めるものではない。
ただ、
自分が選んだ道を、
自分で引き受けるための言葉だ。
結衣は、八咫刃の柄を強く握った。
冷たい感触が、
確かにそこにある。
これが、
自分の選択。
復讐の先に、
何もなくてもいい。
何も残らなくてもいい。
ただ、
終わらせる。
兄を奪ったものを。
世界を歪めるものを。
そして、
自分自身を。
結衣は歩道橋を降り、
バイクに跨がった。
エンジンをかける。
音が、世界を現実に引き戻す。
もう迷わない。
全てを捨てる覚悟は、
とっくにできている。
斬るために生き、
斬り終えたら、死ぬ。
それでいい。
それしか、
自分には残っていない。
結衣はアクセルを開け、
朝に向かって走り出した。




