第18話 喰われていく縁 その4 狒々
結衣は、息を切らして走っていた。
どこを走っているのかは、途中でどうでもよくなった。
ただ「間に合わない」という感覚だけが、肺の内側を爪で引っ掻き続ける。
助けて、という声。
方向の分からない声。
声というより、誰かの“皮膚の下”から漏れてきた痛み。
街灯の光が、途中から色を失っていく。
白かったはずの光が、灰色になり、灰色が黒へ沈む。
現実の夜道が、薄い膜を一枚ずつ剥がされていく。
結衣は気づく。
ここはもう「道」じゃない。
誰かの都合で引かれた線だ。
そして、その線の行き着く先は一つ。
――素材。
狒々は、素材を探している。
素材を“見つける”のではない。
素材を“選別する”。
結衣は、八咫刀の柄を握り直した。
掌に伝わる冷たさが、妙に生々しい。
まるで金属ではなく、冷えた骨を握っているみたいだ。
路地の奥。
古い集合住宅と戸建てが混ざる、境界の曖昧な区画。
そこに、ぽっかりと“暗さの穴”が開いていた。
家一軒分の影が、周囲の影と質が違う。
影がただ暗いのではなく、光を吸って太っている。
玄関灯は点いている。
それなのに、玄関の前だけが夜より濃い。
結衣は足を止めなかった。
止まった瞬間、間に合わなくなる。
門扉に手をかける。
鍵はかかっていない。
だが、開けた瞬間、蝶番が鳴らなかった。
音が、削られている。
庭に入った瞬間、鼻を突く匂いが変わる。
土の匂いが、湿った絵具の匂いへ。
乾きかけた油。
血と混じった溶剤。
そして、どこか甘い――腐り始めた肉の匂い。
結衣は唾を飲み込んだ。
喉が痛い。
吐き気が上がってくる。
「……来てる」
独り言が、闇に吸われた。
玄関の戸に触れる。
冷たい。
異様な冷たさだ。室内に人がいる温度じゃない。
結衣は、躊躇なく戸を開けた。
中は、暗い。
だが、真っ暗ではない。
薄い光がある。
壁のあちこちに貼られた、白い紙片――展示用のラベルのようなものが、青白く光っている。
文字が書かれている。
読めない。
目が滑る。
読もうとした瞬間、意味がこぼれ落ちる。
――読ませない、のではない。
――読ませる必要がない。
ここは、作品の説明をする場所ではない。
ここは、作品を作る場所だ。
廊下を進むと、床が少し柔らかい。
板張りのはずなのに、沈む。
踏み込むたび、微細な粘りが靴底に絡む。
結衣の脳裏に、資料の写真が浮かぶ。
損壊の少ない遺体。
必要な部分だけ、持っていかれたような遺体。
――剥がすんじゃない。
――選んで、抜く。
結衣は、息を殺した。
奥の部屋から、音がする。
布が擦れる音。
濡れた筆先が紙を撫でるような音。
それに混じって、微かに、人の呼吸。
女の呼吸。
必死に抑えた呼吸。
泣き声に変わりかけているのに、声にするのが遅れている呼吸。
『……っ、やだ……』
声がした。
細い。
だが、確かに生きている声だ。
結衣は、一歩、踏み込んだ。
襖があった。
襖のはずだった。
だが、その表面は紙ではない。
薄い皮だ。
人の皮膚に近い質感。
僅かな産毛。
伸びきらずに固定された毛穴。
結衣の胃がひっくり返りそうになった。
狒々は、紙を使わない。
作品に紙は不要だ。
皮がある。
肉がある。
結衣は躊躇しなかった。
躊躇すれば、次に剥がされるのは“中身”だ。
襖を引く。
――音が、しない。
開いた先には、部屋があった。
広い。
だが、畳の目が歪んでいる。
部屋の角が直角じゃない。
空間のほうが、絵師の手で“構図”にされている。
中央に、女がいた。
椅子に縛られている。
縄ではない。
布だ。
白い布。
包帯のような、細い布が幾重にも巻きついている。
身体を固定する布なのに、布の端がどこにも繋がっていない。
空中で、ぴんと張っている。
――空間に縫い留めている。
女は顔を上げた。
涙で濡れた頬。
唇が震えている。
恐怖で瞳孔が開ききっている。
水相多恵だった。
結衣の胸の奥に、痛みが走る。
肉体の痛みじゃない。
もっと古い場所が、ひっかかれるように痛い。
「……多恵!」
名前を呼んだ。
はっきり呼んだ。
呼べたことが、逆に驚きだった。
多恵の目が結衣を捉える。
そこに、救いが宿る――はずだった。
だが。
多恵の表情は、救いの顔にならない。
怯えは薄れない。
視線が結衣をなぞっても、結衣の輪郭が“定まらない”みたいに、目が迷う。
『……だ、れ……?』
その一言が、結衣の胃を冷たくした。
「私……結衣……」
名乗った瞬間、空気がきしんだ。
名乗ること自体が、この場の“構図”を乱した。
多恵は、必死に思い出そうとする顔をした。
眉が寄る。
唇が動く。
けれど、目の奥が空回りしている。
『……わ、かん、ない……』
声が割れる。
『でも……怖い……こわい……』
結衣は、歯を食いしばった。
(……ふざけるな)
狒々の能力ではない。
それは、分かっている。
なら、これは何だ。
何が、多恵から“私”を削った。
答えは出ない。
出ないまま、結衣の掌の中の八咫刀が、ほんの僅かに震えた。
喜んでいるみたいに。
結衣は、ぞっとした。
刀が“斬れる状況”を喜ぶのは当然だ。武具だから。
だが、この震えは違う。
斬れる相手がいる、という喜びではない。
結衣の中にある何かが薄くなることを、歓迎している。
結衣は、その感覚を無理やり切り捨てた。
今は、救う。
多恵の背後。
影があった。
天井近く。
梁の上。
人の形に近い輪郭が、逆さに張りついている。
毛だらけ。
腕が長い。
指が異様に細い。
関節が多すぎる。
顔は猿に似ている。
だが、目が人間だ。
絵師の目。
値踏みする目。
狒々。
いや、狒々の皮を被った“山田右衛門作”。
その手には、筆が握られていた。
筆ではない。
柄が骨で、穂先が――髪だ。
黒髪。
切り揃えられ、束ねられ、筆にされた髪。
狒々が、笑った。
《……やっと、見つけた》
声は、やけに滑らかだった。
人語が上手すぎる。
獣の喉で、人間の言葉を真似しているのではない。
最初から人間だった声だ。
《ここまで、器が足りなかった》
多恵が震えた。
布が微かに鳴る。
狒々は、多恵を見ている。
結衣を見ない。
視線が結衣を通り過ぎ、素材へ突き刺さっている。
《肌の張り。骨の軽さ。首の角度》
狒々は、筆を軽く振った。
空中に、薄い線が走る。
線は光ではない。
透明な刃だ。
線が多恵の頬を掠めた。
血が出る――はずなのに、血が出ない。
代わりに、皮膚の表面が“浮いた”。
剥がれる前の、ほんの一瞬。
皮膚が、紙みたいに波打つ。
多恵の喉が引きつった。
叫びたいのに声が出ない。
声を出せば、そこから裂けると本能が理解している。
結衣の背中が熱くなった。
「……触るな」
狒々は、初めて結衣へ目を向けた。
興味がない目だ。
邪魔な道具を見る目。
素材じゃない、という扱い。
《刃か!》
鼻で笑う。
《刃は、絵を描かない》
結衣は、八咫刀を抜いた。
刃が闇を裂く。
抜いた瞬間、紫電が走った。
「祓詞、断祈!」
紫の稲妻が、刀身にまとわりつき、空気を焦がす匂いが広がる。
結衣は踏み込む。
狒々の影へ向けて、一閃。
紫電が走り、梁が裂け、闇が弾けた。
手応えが――ある。
斬った。
確実に、斬った。
だが狒々は落ちない。
落ちる代わりに、空中で“ほどける”。
体が裂けたのではない。
輪郭だけがほどけ、黒い毛が墨の飛沫みたいに散る。
そして、散った墨が――床に落ちる前に、畳へ染み込んだ。
空間に吸われる。
狒々の声が、四方から聞こえた。
《……いい刃だ》
《だが、刃は素材を守れない》
次の瞬間、結衣の足元が沈んだ。
畳が、柔らかい泥になる。
泥ではない。
濡れた絵具だ。
黒い。粘る。吸い付く。
結衣の足首が、沈む。
狒々は、床の下から出てきた。
出てきた、ではない。
床の絵具から“描かれた”。
毛だらけの腕が伸び、結衣の腹へ突き刺さる――寸前。
結衣は刃を逆手に持ち替え、再び断祈を叩き込んだ。
紫電が狒々の腕を焼く。
毛が焦げる匂い。
皮膚が裂ける音。
だが。
裂けた皮膚の下から出てきたのは、肉ではなかった。
白い下地。
絵の下塗りみたいな白。
その白に、細い線が走っている。
矢文の筆致。
祈りの旗の筆致。
――描かれている。
狒々は“生き物”として立っていない。
作品として立っている。
だから、焼けても、裂けても、完成形が崩れない。
結衣は舌打ちした。
(…厄介)
狒々は笑う。
《私は、絵師だ》
《人を描き、人を残す》
《残すために、奪う!》
狒々の筆が、空を撫でる。
透明な線が、結衣の肩を掠めた。
痛み。
だが、切れたのは皮膚ではない。
結衣の視界の端が、僅かに欠ける。
感覚が、ひとつ削られたみたいに、世界が薄くなる。
結衣は歯を食いしばった。
これは縁の問題ではない。
精神の削れだ。
刀の代償ではない。
戦うことの代償だ。
狒々は、多恵へ向き直る。
《君は、正しい》
《このまま剥いで、貼り付ければ、私は戻れる》
多恵は首を振った。
涙が落ちる。
その涙すら狒々は材料の湿り気として見ている。
『……いや……』
『……お願い……誰か……』
結衣は、身体を引き剥がすように泥から抜いた。
足首が裂けそうになる。
だが抜く。
狒々が、多恵の頬へ筆先を近づける。
皮膚が、また浮いた。
多恵の口から、今度は声が出た。
短い悲鳴。
喉が壊れかけた声。
結衣の中で、何かが切れた。
「――やめろ」
結衣は踏み込んだ。
断祈を、狒々の筆へ叩きつける。
紫電が筆を裂いた。
髪の穂先が散る。
骨の柄が割れる。
狒々が、初めて不快そうに眉を動かした。
《……邪魔をするな!》
声が低くなる。
室内の空気が、絵具の匂いから血の匂いへ変わる。
壁が歪む。
天井が遠のく。
部屋の外側が剥がれ、別の空間が見える。
そこには、並んでいた。
若い女性の身体。
床に寝かされている。
いや、寝かされていない。
“配置されている”。
首の角度。
肩の落とし方。
腰の反り。
脚の開き。
全てが、誰かの好みで揃えられている。
皮膚が、部分的に無い。
剥がしたのではない。
抜き取った跡だ。
綺麗に、必要な分だけ。
血は少ない。
血を出さないように抜いている。
外科でも拷問でもなく――制作だ。
多恵が嗚咽した。
目を逸らしたくても、首が固定されている。
見せられる。
自分がこれからどうなるかを、見せられる。
狒々が、囁く。
《今までのは失敗作だ》
《君は、成功作になれる》
結衣の胃が、冷たく硬くなった。
(……殺す)
ただの怒りではない。
作品として扱われる人間への嫌悪。
人の人生を、皮膚の厚みで測る化け物への嫌悪。
結衣は、八咫刀を構える。
断祈の紫電が、強くなる。
強くなりすぎる。
結衣の腕が、軽くなる。
軽すぎる。
(……こんなに、振れるはずがない)
結衣は元々、普通の女だった。
訓練もしてきた。中森のアシストもある。
だが、それでも――ここまで身体が“刃の都合”で動くのはおかしい。
八咫刀が、結衣の筋肉を使っている。
結衣が刀を振るっているのではなく、
刀が結衣を振るっている。
その違和感が、背骨を冷たく撫でた。
狒々が飛んだ。
梁から床へ。
床から壁へ。
壁から天井へ。
獣の動きではない。
筆の運びだ。
一筆で線を引くように、最短で移動してくる。
結衣は追い切れない。
視線が遅れる。
判断が遅れる。
狒々の指が、結衣の頬を掠めた。
痛み。
皮膚が裂けた――のではなく、
“表情”が削られた感覚。
笑う筋肉の記憶が、僅かに薄れる。
怒る筋肉の記憶が、僅かに薄れる。
結衣は、目を細めた。
(……こいつ、斬るだけじゃ足りない)
狒々は、作品として立っている。
なら、作品ごと焼き払うしかない。
結衣の脳裏に、必殺が浮かぶ。
零域・断絶。
八咫刀を地面に突き立て、円形の紫電渦を作り、範囲内の相手を滅殺する。
一撃で終わらせる。
ただし、範囲は広い。
多恵が巻き込まれる。
結衣は、瞬時に考える。
狒々は多恵を素材にしたい。
つまり、多恵を傷つける攻撃は避けるはずだ。
なら、狒々の“制作衝動”を逆手に取る。
狒々を、多恵から引き剥がし、円の外へ誘導する。
結衣は動いた。
断祈を、わざと外す。
狒々の身体の端をかすめる程度に斬り、挑発する。
狒々は笑う。
余裕の笑いではない。
気に入らない笑い。
《刃が焦れている》
《焦れている刃は、線が荒れる》
結衣は返す。
「黙れ」
言葉は短く。
感情は使わない。
感情は削られる。
結衣は、狒々の動線を読む。
筆の運びは癖が出る。
絵師は癖で動く。
“美しい角度”へ向かう癖。
狒々は多恵の首筋へ回り込み、皮膚を浮かせる角度を探す。
結衣はその瞬間、狒々の背へ断祈を叩き込んだ。
紫電が走る。
狒々の背に、焦げた線が刻まれる。
狒々が、初めて声を上げた。
怒鳴りではない。
“筆が折れた”時の苛立ちの声だ。
《……汚すな》
狒々が結衣へ向き直る。
視線が、結衣へ定まる。
やっと、狙いが結衣へ移る。
それでいい。
結衣は多恵に叫んだ。
「逃げろ!」
多恵は泣きながら頷こうとした。
だが頷けない。布が空間に縫われている。
身体が動かない。
『……うご、けない……!』
声が震える。
恐怖で語尾が潰れる。
普通の人間の声だ。
こういう声が出るのが、正常だ。
結衣は、その正常さに一瞬だけ救われた。
多恵は壊れていない。まだ壊れていない。
結衣は、狒々の注意を自分へ完全に固定するため、あえて前へ出た。
狒々の攻撃が来る。
透明な線。
斬撃ではない。
“採寸”だ。
線が結衣の身体を撫で、長さを測り、形を測る。
皮膚の上を走った瞬間、結衣の胃が冷えた。
狒々は結衣を素材として見ていない。
だが、素材の“比較対象”としては見ている。
《……悪くない》
狒々が笑う。
《だが、違う》
《君は――刃の匂いがする》
結衣の背中が粟立った。
刃の匂い。
それはつまり、結衣はもう“人”ではない、という扱い。
結衣は叫ぶ。
「わたしは人だ!」
狒々は鼻で笑う。
《人は、こんな目をしない》
結衣は一瞬だけ、自分の目が何をしているのか分からなくなった。
鏡がない。
だが、分かる。
自分の目は今、狒々を“素材”として見ている。
――壊していいもの。
――切っていいもの。
その視線が自分の中にあることが、ひどく気持ち悪い。
結衣は、その気持ち悪さごと踏み潰した。
「……来い」
狒々が動く。
床を滑る。
壁を走る。
天井に張りつく。
そして落ちる。
結衣は、その落下位置へ八咫刀を突き出し、断祈を爆ぜさせた。
紫電が狒々の胸を貫く。
毛が焼け、白い下地が露出する。
下地の下から、今度は“文字”が出てくる。
祈りの文字。
旗に書かれた言葉。
矢文の文体。
――内通の筆。
――裏切りの筆。
山田右衛門作は、最後まで“文章”で生き延びた。
その癖が、残響に残っている。
結衣は確信する。
こいつは、口で生き延びる。
言葉で生き延びる。
絵で生き延びる。
そして今は、皮膚で生き延びる。
なら、言葉も絵も皮膚も全部、まとめて潰す。
結衣は後ろへ跳んだ。
多恵から距離を取る。
狒々が追ってくる。
狙い通り。
狒々が結衣へ飛びかかった瞬間。
結衣は、床へ八咫刀を突き立てた。
刃が床に突き刺さる。
刺さった瞬間、紫電が円を描く。
「……零域・断絶!」
円形の紫電渦が、床を這い、壁を舐め、空間を閉じる。
渦は光ではない。
規則だ。
斬るという行為の“範囲指定”。
狒々の身体が、円の内側で止まった。
止まったのではない。
止められた。
《……っ!》
狒々が暴れる。
毛が逆立つ。
腕が伸びる。
指が裂ける。
だが、伸びた先で紫電に焼かれ、形が保てない。
筆が折れ、線が乱れ、構図が崩れる。
狒々が叫んだ。
《やめろぉぉッ!》
初めての、感情の叫びだった。
作品を壊される叫び。
自分の復活の計画が崩れる叫び。
零域の紫電が、狒々の輪郭を削り始める。
毛が燃え、白い下地が剥がれ、文字が裂ける。
裂けた文字は意味を失い、黒い染みになって散る。
狒々の身体は、作品としての強度を失い始めた。
崩れる。
剥がれる。
ほどける。
そして最後に残ったのは――人の目だった。
猿の顔の中で、人間の目だけが残る。
絵師の目。
生存者の目。
裏切り者の目。
その目が、結衣を見た。
《……私を……残せ……》
命乞いではない。
作品の保存要求だ。
結衣は、冷たく言った。
「……残さない」
紫電渦が収束する。
円が閉じ、刃の規則が完成する。
狒々は、音もなく粉になった。
肉の粉ではない。
煤。
乾いた絵具の粉。
皮膚の薄片。
文字になりきれなかった黒い滓。
残響が滅んだ。
部屋の空気が、一瞬だけ“現実”へ戻る。
腐った絵具の匂いが薄れ、代わりに汗と涙の匂いが戻る。
多恵が、息を吸った。
吸える。
吸えることに驚いたみたいに、何度も短く吸う。
結衣は八咫刀を引き抜いた。
刃から紫電が消え、余熱だけが残る。
床に残った黒い滓が、微かに蠢いた。
残穢の気配。
滅殺の後に必ず残る毒。
結衣はそれを見たが、今は踏み込まない。
後始末は中森の仕事だ。
結衣は、斬る。終わらせる。
そのためにいる。
結衣は多恵へ近づき、布へ手を伸ばした。
触れた瞬間、布がほどけた。
空間に縫われていた“線”が切れたからだ。
多恵は椅子から崩れ落ち、床に両手をついた。
肩で息をする。
涙が止まらない。
結衣は、しゃがみ込んだ。
「……怪我は」
声が、少しだけ柔らかくなりかけた。
だが、柔らかさは途中で死ぬ。
多恵は結衣を見上げる。
震えた瞳。
助かった安堵と、まだ終わっていない恐怖。
そして――困惑。
目が合っているのに、
“見ていない”。
「……あなた……」
多恵の唇が動く。
「……誰……?」
結衣の胸が、もう一度きしんだ。
さっきと同じ。
いや、さっきより深い。
助かった直後に、
命の恩人を前にして、
それでも“分からない”。
多恵は必死に思い出そうとする。
眉が寄る。
唇が震える。
「……ごめんなさい……」
謝る声は、普通だった。
普通の人が、理解できないものに出会った時の謝り方だ。
結衣は、そこでようやく気づいた。
自分が怒れないことに。
責められないことに。
多恵が悪いんじゃない。
多恵の記憶が悪いんじゃない。
世界の方が、結衣を“薄く”している。
結衣は、八咫刀の柄に触れた。
さっきまで戦いに応えていた刃は、今は沈黙している。
沈黙しているのに、存在感だけが強い。
結衣の手の中で、刃が“正しい居場所”を主張している。
結衣は、笑わなかった。
笑えるはずがない。
「……いい」
結衣は短く言った。
多恵が目を見開く。
結衣は続ける。
「それでいい。生きてるならそれでいい」
多恵は泣きながら頷いた。
頷けることが、今は救いだ。
遠くで、サイレンの音がした。
誰かが通報したのかもしれない。
現実側の音が戻り始める。
空間が、ようやく現実の形を思い出していく。
結衣は立ち上がった。
多恵が縋るように言う。
「……あなた……どこに……」
結衣は一瞬、言葉を探した。
名前を言っても意味がない。
言っても届かない。
結衣は、代わりに言った。
「……警察に行け」
「……え……」
「相手にされなくても、行け。記録に残せ」
結衣の声は冷たい。
だが、それは突き放しではない。
現実に縋るための方法を、知っているから言っているだけだ。
多恵は頷く。
頷きながら震える。
結衣は、部屋を出た。
外の夜気が冷たい。
肺に入った空気が、やっと“空気”の味をしている。
門の外。
街灯の下。
さっきの男性が、また通り過ぎた。
結衣は、わざと目を合わせた。
男性は結衣を見た。
見たのに、眉が微かに動いただけだった。
「……?」
理解できないものを見る顔。
それだけ。
結衣は、唇の内側を噛んだ。
(……やっぱり、変だ)
狒々の能力ではない。
狒々は死んだ。
なのに、現実側の“私”が、薄いままだ。
結衣は歩き出した。
腰の八咫刀の重み。
その重みだけが、今の結衣を現実につなぎ留めている。
そして、結衣は思った。
――この刀は強すぎる。
――強すぎて、私の人生の方を削っている。
理由は分からない。
仕組みも分からない。
中森が何かしているのかもしれない。
だが、結衣は確信だけを持った。
このまま八咫刀を振るい続ければ、
自分はいつか、誰の記憶にも残らない。
それでも。
結衣は、歩みを止めない。
止めた瞬間、斬る者がいなくなる。
止めた瞬間、また誰かが“素材”にされる。
結衣は夜へ溶けていった。
刀の冷たさだけを、手の中に残して。




