第18話 喰われていく縁 その3 刃を振るう者
夜の国道は、妙に白かった。
街灯の光が路面に反射しているだけなのに、結衣にはそれが「塗り直された景色」のように見えた。
バイクのエンジン音が、やけに遠い。
風を切っている感覚はあるのに、速度だけが実感として遅れてくる。
(……変ね)
そう思った瞬間、結衣は自分の考えを切り捨てた。
現場に向かう前の感覚の乱れは、いつものことだ。
残響が近い時、世界のほうが先に軋む。
中森から渡された資料は最低限だった。
山間部に近い地方都市。
ここ数か月で続く若い女性の惨殺事件。
共通点は、遺体の損壊が異様に少ないこと。
――壊されていない。
――“持っていかれた”ように見える。
その表現だけで、結衣は十分だった。
バイクを降り、路肩に停める。
住宅地の外れ。
新興住宅と古い家屋が混じる、どこにでもある街並み。
その中で、一軒だけ、違和感を放っている家があった。
隣家との距離。
塀の高さ。
門灯の位置。
すべてが、微妙に「記憶に触れる」。
(……似てる)
結衣は足を止めた。
理由は分からない。
ただ、胸の奥が、きしむように痛んだ。
この家並みは、
――かつて、自分が暮らしていた場所と、よく似ている。
同じ一戸建て。
同じような間取り。
隣家との距離感。
夕方になると、どこからか子どもの声が聞こえてきて、
夜になると、風の音だけが残る。
結衣は、ゆっくりと息を吐いた。
(……今は関係ない)
過去を思い出す余裕はない。
今回は、既に被害者が出ている。
結衣は八咫刀の柄に触れた。
伝わる冷たさが、思考を現実へ引き戻す。
八咫刀は、いつも通りだった。
重さも、バランスも、違和感はない。
――にもかかわらず。
周囲が、静かすぎる。
犬の鳴き声がない。
テレビの音も聞こえない。
人の生活音が、どこか薄い。
「……留守、か」
独り言が、空気に溶けた。
だが、その言葉が返ってこないことに、結衣は一瞬だけ引っかかった。
返ってこない、というより――
反響がない。
音が、意味を持たずに消えていく。
結衣は、家々の間を歩いた。
歩いているはずなのに、足音が薄い。
地面を踏んでいる感触だけが、少し遅れてくる。
若い男性とすれ違った。
作業着。
車のキーを手にしている。
「すみません」
声をかける。
相手は、確かにこちらを見た。
だが――
視線が、結衣の輪郭を滑る。
目が合っているのに、
“見ていない”。
男性は小さく会釈をして、
何も言わずにそのまま歩き去った。
「……?」
結衣は振り返った。
声をかけられなかった理由が分からない。
(聞こえなかった?)
そう思いかけて、否定する。
距離は近かった。
確実に聞こえる位置だった。
それなのに、
まるで「誰もいなかった」ような反応。
胸の奥で、鈍い違和感が広がる。
結衣は歩き出した。
足を止める理由はない。
こういうズレは、残響が絡む現場では珍しくない。
そう、頭では理解している。
――理解している、はずなのに。
近所のコンビニに入る。
明かりは点いている。
人もいる。
レジに並ぶ。
前の客が会計を終え、店員が顔を上げた。
「……」
視線が、結衣を通り過ぎる。
「……あの」
結衣が声を出すと、店員の肩が僅かに跳ねた。
「あ、ああ……どうぞ」
言い方が、妙に曖昧だ。
視線が、定まらない。
会計は問題なく済む。
だが、レシートを渡す時、店員の指が微妙にずれた。
結衣の手ではなく、
その“少し横”。
まるで、そこに別の誰かがいるかのように。
(……気のせい、か)
結衣はそう結論づけ、店を出た。
だが、背中に冷たいものが貼りつく感覚は消えない。
歩きながら、結衣は思い出していた。
幼い頃、
隣の家に住んでいた少女のことを。
水相多恵。
よく一緒に絵を描いた。
現実と空想の区別が曖昧な子で、
「ここにないもの」を描くのが好きだった。
結衣の兄とも仲が良く、
夕方になると三人で並んで帰った。
――そんな記憶が、なぜ今、浮かぶ?
結衣は眉をひそめた。
(……関係ない)
関係ないはずだ。
多恵は今、ここにはいない。
――いない、はずなのに。
結衣の足が止まった。
通りの向こう。
街灯の下。
一瞬だけ、
誰かの“輪郭”が見えた。
若い女性。
背格好が、記憶と重なる。
「……多恵?」
名前が、無意識に口をついた。
返事はない。
その代わり、
空気が、ひどく重くなった。
肌に貼りつくような圧。
呼吸が、浅くなる。
結衣は、理解した。
――来ている。
残響が、近い。
だが、それは自分に向けられたものではない。
視線が、結衣を“通り過ぎている”。
狒々は、結衣を見ていない。
その視線は、
もっと奥――
“理想的な皮”を探している。
結衣の背筋を、嫌な予感が走る。
(……多恵)
理由は分からない。
だが、結衣は確信していた。
狒々の狙いは、
自分ではない。
結衣は八咫刀を握り直した。
刀は、応えるように静かに震える。
――まだ、斬れる。
――まだ、間に合う。
だが、その瞬間。
結衣の背後で、
誰かが叫んだ。
「……助けて……!」
声は、確かに聞こえた。
だが、その方向が、分からない。
音が、拡散しない。
空間に吸われる。
結衣は、走った。
どこへ向かっているのか、分からないまま。
ただ、
“そこに行かなければならない”と身体が理解していた。
走りながら、結衣は気づいていた。
――誰も、追ってこない。
――誰も、騒がない。
この異常な状況を、
認識しているのが、自分だけだということに。
胸の奥が、冷えていく。
(……私)
(……本当に、ここにいるのか?)
その疑問を、結衣は振り払った。
考えるな。
考えれば、足が止まる。
八咫刀の重みだけを、信じろ。
結衣は、闇の奥へと走り込んだ。
その背後で、
現実は静かに、
結衣の存在を“削り始めていた”




