第18話 喰われていく縁 その1 隣の家にいた少女
水相多恵がこの町に来てから、夜の匂いが変わった。
都会の夜は、光でできている。車の尾灯、コンビニの白、スマホの青。人の気配が薄れても、光が残るから、孤独が“希釈”される。
ここは違う。
夜になると、闇がちゃんと闇になる。
山の影が空を塞ぎ、湿気が音を吸って、遠くの川の匂いが骨に染みる。暗さが濃くなるほど、自分の呼吸が大きく聞こえる。そのせいで、多恵は眠りが浅くなった。
赴任して三週目。
町のはずれに借りた小さな一軒家は、古いが手入れされていて、窓枠の木が乾いた匂いを持っていた。
玄関の段差の高さ。軒先の影の形。庭の端にある、使われていないまま錆びた蛇口。
どれも、何かに似ていた。
隣家が見える。塀越しに、二階の窓と、雨樋の角度と、門扉の位置。
それが、妙に“懐かしい輪郭”をしている。
自分の生家ではない。もちろん、ここが自分の育った場所であるはずがない。
それでも、脳が勝手に古い風景を引っ張り出す。幼い頃、夕方の光が横から差して、家の角が長く伸びて、隣家の庭に子どもの笑い声が落ちていた。
笑い声。
誰のだ。
思い出せそうで、思い出さない方が安全な感じがした。
多恵はその感覚を、今の生活に必要な“鈍感さ”として採用することにした。田舎の赴任生活は、都会と違って逃げ道が少ない。いちいち情緒に引っかかっていたら仕事が回らない。
多恵は県立の小さな美術館で学芸員をしている。
展示は地味だ。郷土史と寄贈作品、明治以降の地方画家、宗教画の複製、そして時々、巡回展の端に混ざる有名作品の“写真パネル”。
その地味さが好きだった。
目立たない場所で、目立たないものを守る。守るという言葉の中に、ほんの少しだけ自分の価値を感じられる。都会では、価値は数字でしか測られないことが多い。ここでは、物が残り、匂いが残り、人が残る。
残るものが多い町は、過去が濃い。
過去が濃い場所には、噂が根を張る。
その日の朝礼が終わったとき、事務の女性が小さく言った。
「……昨日のニュース、見ました?」
多恵は首を振った。昨夜は眠りが浅く、スマホを見る気にもなれなかった。
「また、ですよ」
“また”の言い方が、妙に乾いていた。
乾いているのに、濡れたものを扱うみたいな慎重さが混じっている。
「若い女性が……山の方で。遺体が見つかって」
多恵の指が、展示室の鍵を握る力をほんの少し強めた。
「事件、ですか」
「そう言うしか、ないですね。七人目です」
七人。
数字が出た瞬間、噂が“習慣”になっていることが分かる。対岸の火事を見る様に話題に上げてくる、人間の怖さだ。
「最初は事故かって言われてたんですけど」
事務の女性は言葉を切り、周囲を見た。朝礼後の廊下は、人が行き交う。話が漏れるのを嫌うというより、話したくない内容を口に出す時の反射だ。
「警察はあんまり詳しく出してませんけど……皮を、剥がされてたって」
多恵の胃がきゅっと縮む。
剥がす、という動詞が、刃物の感触を連れてくる。
「全部じゃないんです。全部じゃないんですけど……皮膚が、異常に、きれいに、って」
“きれいに”
その副詞が最悪だった。衝動ではない。目的がある。作業がある。手順がある。
「刃物の跡は少ないって。まるで……」
事務の女性は笑おうとして失敗した。
「……美術品みたいだって、言った人もいるらしいです」
多恵は、一瞬、自分の仕事の手触りが嫌になった。
保存、修復、展示。人の目に“きれいに”見えるように整える作業。
それが、死体の話に接続されるだけで、世界が歪む。
昼休み、職員食堂の隅で噂が転がっていた。
「顔が残ってたらしい」
「四人目はもっとひどかった」
「失敗作を捨てたんじゃないかって」
「理想じゃないと、壊すんだよ」
失敗作。理想。壊す。
言葉が軽い。軽いまま、人の死を切り刻む。
多恵は、食べる速度が落ちた。
咀嚼のたびに、口の中が乾く。
不意に、自分の頬の皮膚が、他人の皮膚みたいに感じた。
帰り道、町内掲示板に貼られた注意喚起の紙が目に入った。
「夜間の一人歩きに注意」
「不審者情報」
「女性を狙った事件が続いています」
形式ばった文面の下に、誰かが手書きで追記している。
《若い女性の被害が続いています》
若い女性。
自分の影を見て、多恵は無意識にフードを深く被った。意味はない。刺さる刃は布を通る。分かっているのに、身体がそうした。
家に着くと、隣家の窓に灯りが点いていた。
その灯りが、昔の記憶を呼ぶ。
幼い頃、隣の家に住んでいた女の子がいた。自然と仲良くなった。勝手に庭を行き来し、紙と鉛筆を持って、ありえない生き物の絵を描いた。
翼のある魚。空に沈む月。人の顔をした獣。
“空想”は、子ども同士にとって最も誠実な遊びだった。
そこに、もう一人。年上の青年が混ざることがあった。
優しい声。夜更かしの匂い。机の上の紙束。
多恵は、名前を思い出しそうになって、やめた。
思い出せば、いろいろが戻ってくる気がした。
戻ってきてほしいものもある。戻ってきてはいけないものもある。
この町に来たのは、戻るためではない。前に進むためだ。
そう思っていた。
その夜、雨が降った。
薄い雨音が屋根を叩く。
湿気が増え、匂いが濃くなる。
眠りはさらに浅くなった。
夢なのか現実なのか分からない瞬間に、多恵は目を開けた。
部屋は暗い。時計の赤い数字だけが浮いている。
秒針の音がやけに大きく聞こえる。
耳が冴えている。何かを待っている耳だ。
外で、何かが動いた。
猫ではない。
風でもない。
雨樋を伝う水の音とも違う。
重い。
それでいて、足運びが妙に静かだ。
音を消すことに慣れた動き。
多恵は息を止めた。
カーテンの隙間から外を見る勇気はない。
見れば、見返される気がした。
扉の向こう、廊下の暗がりに、気配が“溜まっていく”。
匂いが変わる。濡れた土の匂い。血の匂い。古い油の匂い。
獣の臭いに、人間の汗が混ざる嫌な臭気。
その瞬間、頭の中に、根拠のない言葉が落ちた。
――見られている。
多恵は布団の中でスマホを探した。
手が震える。指が滑る。画面が点く光が眩しい。
震える手で、母の番号を押す。
呼び出し音が鳴る。
一回。二回。三回。
出ない。
父。
呼び出し音。
出ない。
喉が詰まり、吐き気が上がった。
時間が遅い。
夜中だから当たり前だ。
当たり前が、今は敵だった。
廊下で、床がきしむ。
きしむはずがない。
この家は古いが、今の足音は“歪む”感じがする。
木が鳴るのではなく、空気が軋む。
多恵のスマホ画面が、一瞬だけ黒く落ちた。
電池はある。
なのに落ちた。
次の瞬間、部屋の暗さが変わった。
影が増えた。
天井が低くなった気がする。
多恵の胸の奥で、嫌な確信が育つ。
ここは、普通の現実じゃない。
多恵は布団から出た。
足が冷える。床の冷え方が、石みたいに冷たい。
玄関の方に逃げる?
窓から出る?
頭の中で選択肢が回るが、身体が追いつかない。
廊下の暗がりに、人の輪郭が立っていた。
人。
それだけなら、助けを求められる。
だが、輪郭が“人”のまま定まっていない。
顔の位置が揺れる。肩幅が広い。腕が長い。背中が異様に厚い。
人の皮を着た獣のように見える。
いや、獣の皮を被った人のようにも見える。
その影が、一歩、近づいた。
多恵の喉から、声が出ない。
声が出ないまま、涙が先に滲む。
恐怖は、叫びより前に身体を壊す。
影の中から、声がした。
低い。
男の声だ。
だが、どこか粘ついている。言葉が唾液に浸っているみたいな不快さ。
《……線が、いい》
何の線だ。
多恵は理解するより先に、視線が自分の腕に落ちているのを感じた。
肩から肘、肘から手首。
骨格。筋肉。皮膚の張り。
まるで、採寸されるみたいに。
《……整っている》
多恵の身体が、勝手に後ずさる。
背中が壁に当たる。
逃げ道がなくなる。
影が近づき、匂いが濃くなる。
血と土と、古い絵具の匂い。
油絵具の酸化した匂いに似ている。
それが、なぜか分かってしまうのが最悪だった。
自分の生活の匂いが、ここに混ざっている。
《……皮が、欲しい》
多恵の胃が反転しそうになった。
皮。
噂の言葉が、急に現実になる。
“きれいに”剥がされる、という副詞が、今の呼吸の近さに変わる。
多恵の視界の端が、滲んだ。
部屋の角が揺れる。
壁紙の模様が、別の模様に変わる。
木目が、畳の目に見える。
玄関の位置がずれる。廊下が伸びる。
隣家が――
隣家の灯りが、幼い頃の記憶の灯りに重なった。
懐かしい。
危険だ。
懐かしいは、戻る場所を作る。
戻る場所は、捕まえる場所になる。
多恵は、震える息で言った。
「や、やめて……」
声が出たことが、自分でも意外だった。
だが、声は弱い。相手に届く前に折れている。
影が笑った。
笑いが、獣の喉の奥から出てくるみたいに濁っている。
《……怖がる顔も、いい》
多恵の頭の中で、何かがぷつりと切れた。
このままでは、作品にされる。
このままでは、“素材”になる。
殺されるだけではない。
死んだ後も、整えられる。
美しくされる。
理想に寄せられる。
失敗作なら捨てられる。
恐怖が、想像を育てる。
想像が、恐怖を増やす。
増えるたび、身体の内側が削れていく。
多恵は廊下を走った。
玄関へ。
鍵は――と思った瞬間、足元が沈む。
床が、柔らかい。
木ではない。粘土みたいに沈む。
踏みしめるたび、足首が取られる。
逃げる速度が奪われる。
影が背後で、空気を切った。
何かが、肩を掴む。
指が食い込む。
冷たい。冷たいのに、焼ける。
「……だめだ」
誰が言ったのか分からない。
自分の声か、相手の声か。
言葉の境界が曖昧になる。
視界が反転した。
天井が床になる。床が天井になる。
落ちる。
落ちるのに風がない。
胃だけが浮く。
多恵は、“引き込まれる”感覚を理解してしまった。
現実から剥がされる。
自分の体が、皮膚の内側から裏返されて、別の場所へ運ばれる。
悲鳴が出た。
今度はちゃんと出た。
だが、音が薄い。
雨音に吸われる。闇に吸われる。
この町の夜は、音を飲む。
そのとき、玄関の外で、車のドアが閉まる音がした。
現実の音。
続いて、慌てた足音。
人の足音。
重く、乱暴で、遠慮のない足音。
「水相さん? いる? 電話出ないから来たんだけど!」
同僚の声だった。
昼間、展示室で一緒に作業していた、あの明るい声。
ミスで展示品の一部を傷つけた、と泣きそうになっていた声。
多恵の喉が震えた。
助け。
助けが来た、という理解が、逆に涙を増やす。
恐怖の中で、救いは痛みとして来る。
影が、ぴたりと止まった。
匂いが変わる。
苛立ちの匂い。
獣の匂いが尖る。
《……邪魔だ》
影が、同僚の方へ向きを変えた。
多恵の身体が勝手に動いた。
助けられる側なのに、助ける側に回ろうとする。
理屈じゃない。反射だ。
「来ないで!!」
叫んだ。
声が、現実の空気に刺さった。
同僚が玄関先で固まる気配がした。
その瞬間、影が多恵の肩から手を離した。
離した、というより、掴む“意味”が切れた。
縫い付けられかけた現実の糸が、ぷつっと切れた感じ。
床が戻る。
木の床。
普通の冷たさ。
普通の重力。
多恵は崩れ落ちた。
膝が床に当たって痛い。痛いという現実が、今はありがたい。
影は廊下の暗がりに溶けた。
溶ける直前、低い声が耳の奥に残った。
《……次は、邪魔のない時に》
多恵は嗚咽を漏らした。
同僚が玄関を開け、部屋に駆け込んでくる。
電灯が点いた。光が乱暴に闇を叩く。
「どうしたの!? 大丈夫!? え、血……?」
血ではない。
多恵は自分の腕を見た。
皮膚が赤くなっている。指の跡。
冷たかった指の跡が、熱を持って浮かんでいる。
「……いた」
やっと言えた言葉は、それだけだった。
同僚は顔色を変えた。
冗談だと思わない。ここはそういう町だ。噂が先に根を張っている。
同僚は多恵の腕を掴み、震える声で言った。
「警察を呼ぶよ!今すぐ」
多恵は頷いた。
頷いた瞬間、吐き気が上がり、胃の中が空なのにえずいた。
恐怖は、時間差で身体を壊す。
警察が来るまでの間、同僚は多恵を抱えた。
多恵は震えが止まらない。
視界の端で、隣家の窓が見える。
灯りが点いている。
その灯りが、また懐かしい輪郭に見えて、脳が勝手に幼い日々を開きかける。
開くな。
今は開くな。
懐かしさは罠になる。
多恵は歯を食いしばり、目を閉じた。
来た警察は、形式的に話を聞いた。
家の中を見回し、雨の夜の匂いに顔をしかめ、最後に言った。
「戸締まりをしっかりしてください。最近物騒ですから」
それだけだった。
若い女性が七人死んでいる町の言葉が、それだった。
多恵は笑えなかった。怒鳴れなかった。
ただ、冷たく理解した。
この町では、死がまだ“現実の事件”として固定されていない。
噂になり、注意喚起になり、生活のノイズになって、溶けている。
だから、あれは動ける。
だから、あれは選べる。
だから、あれは“作品”を作れる。
同僚が帰った後、多恵は一人で座っていた。
明るい部屋なのに、暗い。
光が当たっているのに、闇が残っている。
腕の跡が、じわじわと痛む。
痛みの形が、掴まれた形のまま残っている。
皮膚の上に、所有の痕跡だけが置き土産みたいに残っている。
多恵は、震える指でスマホを握った。
母にかける。父にかける。今度は繋がった。
声が聞こえた瞬間、涙が溢れた。
「どうしたの?」
「こんな時間に……」
多恵は、まともな言葉が出なかった。
助けて、と言うのが正しいのに、助けて、と言えない。
自分の恐怖を誰かの生活に入れるのが申し訳なくて、喉が詰まる。
それでも、絞り出した。
「……こわい」
子どもみたいな言葉だった。
でも、今の自分にはそれしかなかった。
電話口の沈黙が、長く感じた。
母が何かを言いかけ、父が奪うように言った。
「明日、すぐ帰ってこい」
多恵は首を振った。
帰れない。仕事がある。責任がある。逃げたくない。
そういう言い訳が頭に浮かぶ前に、別の感覚が胸を満たした。
帰っても、あれは来る。
場所ではない。条件だ。
“若い女性”ではなく、“適合”だ。
自分が、自分の体の線を持っている限り、来る。
多恵は電話を切り、しばらく何もできずに座っていた。
そして、窓の外を見た。
隣家の灯りが、まだ点いている。
その灯りが、昔の灯りと重なる。
昔の自分が、紙に描いた空想の獣が、そこにいる気がする。
多恵は喉の奥で、乾いた息を吐いた。
空想は、紙の中にある限り安全だった。
外に出た瞬間、現実を食う。
自分は今、食われかけた。
腕の跡が疼いた。
それは“次がある”という合図みたいで、多恵は思わず腕を抱いた。
眠れない夜は続く。
事件は終わっていない。
むしろ、こちらが“選ばれた”という一点で、始まってしまった。
多恵は、明日も美術館に行く。
作品を守る。
展示を整える。
その“整える”という行為の先に、あの影がいる気がして、吐き気が込み上げた。
それでも、行くしかない。
逃げるには、もう遅い。
闇は、選別を始めている。




