第17話「救われる側の席」 その5 救われなかった者たち
現実世界に戻った瞬間、
梓は膝をついた。
床は冷たい。
埃の匂いが、はっきりと分かる。
集会所は、ただの廃屋に戻っていた。
椅子は倒れ、
誰も座っていない。
——最初から、
誰もいなかったかのように。
外では、サイレンの音が近づいてくる。
警察が動いたのだろう。
梓は、深く息を吐いた。
「……戻れた方は、いませんね」
独り言に近い声。
答えは、分かっている。
精神だけを“座らせられていた”人間は、
滅殺の瞬間、
居場所ごと失った。
救済を拒まれたのではない。
救済という名の“逃げ場”が、消えただけだ。
背後で、足音がした。
結衣だ。
八鍵を下ろし、
感情の抜け落ちた顔で立っている。
「……終わった」
それだけ言った。
梓は、ゆっくりと立ち上がる。
「……はい。
事件としては」
一拍。
「ですが、
全員、戻れませんでした」
結衣は、肩をすくめた。
「……当然」
声は、冷たい。
「戻る場所を、
自分で捨てた」
梓は、結衣を見る。
「……捨てさせられた、とは思いませんか」
結衣の目が、鋭くなる。
「思わない」
即答。
「選ばれたいって思った時点で、
あれはもう、
自分の意思だ」
梓は、視線を落とした。
床に残る、
薄い影の痕跡。
人が、座っていた“形”。
「……私は」
言葉を選ぶ。
「……逃げた人も、
生きている側だと思っています」
結衣は、数秒、黙った。
そして、
静かに言う。
「……甘い」
怒りはない。
ただ、距離を取る声音。
「逃げ続けた先に、
居場所はない」
梓は、否定しなかった。
否定できなかった。
だから、
別の言葉を選ぶ。
「……それでも、
切る前に、
戻す努力はしたいです」
結衣は、梓から視線を逸らす。
「……私は、しない」
短い断定。
「戻らない奴を、
戻す義務はない」
外で、
警察の足音が響く。
現実が、完全に戻ってきた。
結衣は、バイクのキーを取り出す。
「……次がある」
それだけ言って、歩き出した。
梓は、追わなかった。
追えなかった。
思想の違いは、
もう、はっきりしている。
救う者。
切る者。
同じ現場に立てても、
同じ方向は、向いていない。
中森から、
短いメッセージが届く。
『記録上、失踪者は“事故扱い”だ』
梓は、端末を閉じた。
事故。
偶然。
不運。
その言葉で、
世界は、今日も正常を装う。
「……救われなかった、ですね」
小さく呟く。
自分に向けた言葉だ。
梓は、集会所を出た。
夕方の光が、街を照らしている。
人々は、
何事もなかったように歩いている。
だが、
“席”は、確かに用意されていた。
次の誰かのために。
梓は、歩き出す。
救えなかった現実を、
抱えたまま。




