逼迫
明確な“意志”を伴った攻撃。
それを敵意と定義するなら、次にどんな不運が降りかかるのか。
ハレビアは、その発生条件と傾向を身体で掴むため、視界を広く使いながら厄災へと詰めていく。
森の空気が、わずかに歪む。
厄災が地面を蹴った。
踏み込みは深く、直線的。
狙いは明確に、ハレビアの顔面。
咄嗟に首を引き、軌道から外す。
風圧だけが頬をかすめる。
同時に、ハレビアの思考は次の段階へと移る。
次のダイスの目。
厄災の次動作。
それらを同時に読むため、視界の奥に“未来”を重ねる。
……だが、それはあまりにも負荷が大きかった。
未来を覗く行為は、視覚情報の拡張ではない。
脳――とりわけ前頭葉を酷使し、現実と予測の境界を無理やり重ね合わせる行為。
眼球は情報を受け取る器に過ぎず、真に削られるのは思考の中枢そのもの。
その“隙”を、世界は見逃さなかった。
木の葉の縁に溜まっていた、ほんの一滴の水。
それが、タイミング悪く揺れ、
ポタリと落ちる。
狙ったかのように、ハレビアの目に直撃した。
一瞬の視界の白濁。
瞬時に走る激痛。
未来視は強制的に中断され、脳の奥に鈍い痺れが残
る。
(――来たな。)
ハレビアは歯を食いしばる。
さっき考えていた“不運”。
それが、今この瞬間に降りかかった。
そして、その一瞬の乱れを、厄災が見逃すはずもなかった。
赤黒い靄がうねる。
形を変え、口の輪郭だけが浮かび上がる。
異様に大きく開いた“口”。
そこから覗くのは、四本の鋭く不揃いな歯。
空気を噛み砕くような、不快な音とともに、
それは一直線にハレビアへと伸びてくる。
回避は、間に合わない。
ハレビアは即座に左腕を突き出した。
防御というより、迎え撃つ形で受け止める。
靄の“口”が、腕に噛みつく。
重さはない。
だが、内部に走る圧と違和感が、皮膚の感覚を狂わせる。
「……っ、やっぱり呪い系は気持ち悪いね」
表情を歪めながらも、足は止めない。
敵意を抑えたまま、距離を詰める姿勢を崩さず、
ハレビアは次の“手”を選ぶため、ダイスを指先で弾いた。
力を失っているとはいえ、歴史から消された存在であるとはいえ――
腐っても“九柱”のうちの使徒。
神話の中で神として語られ、畏怖と災厄の象徴として刻まれた存在の残滓は、今もなお、確かにこの森に息づいている。
赤黒い靄は、もはや偶然の産物ではなかった。
意思を持ち、狙いを定め、獲物を追い詰める“腕”のように伸びる。
裂けた口のような形状が消えたかと思えば、次の瞬間には無数の棘の束となり、地面をえぐりながらハレビアの退路を削り取る。
枝葉が砕け、土が抉れ、森は静かに削られていく。
ハレビアは攻めない。
いや、“攻められない”のではなく、あえて攻めない。
敵意の定義が曖昧な今、下手に明確な殺意を乗せれば、その瞬間に“死に繋がり得る不運”が、どの角度から降り注ぐか分からない。
彼は、ぎりぎりのところで靄をいなし、踏み込みをずらし、致命線を外し続けていた。
だが――
その中で、直感が小さく警鐘を鳴らす。
(……速くなってるな)
最初よりも、靄の初動が鋭い。
追従がわずかに速い。
絡みつく際の“間”が短くなっている。
ほんの塵ほどの差。だが、戦場ではその塵が、生と死の境界線になる。
厄災は、着実に取り戻している。
失われていた力の欠片を、周囲の負の感情、恐怖、混乱、絶望の残滓から啜るように回収しているかのようだった。
その証拠に、靄の輪郭は少しずつ濃くなり、動きには迷いが減り始めている。
ハレビアは、その変化を冷静に観測しながらも、あえて表情には出さなかった。
内心で組み上げる仮説は一つ。
――長引かせれば、こっちが不利になる。
その瞬間だった。
厄災が、ふと動きを止めた。
赤黒い靄が、ぴたりと静止する。
森の中に、不自然な“静寂”が落ちる。
ハレビアは足を止めない。
だが、視線は外さず、全身の感覚を研ぎ澄ませる。
この手の“間”は、たいてい最悪の前触れだ。
厄災は、ゆっくりと口角を持ち上げた。
その笑みは、人間のそれに似ているようで、どこか決定的にズレている。
「……そんなに、その虫けらが大事か?」
自分の右腕を、左手で掴む。
まるで、不要な装備を外すかのような気軽さで。
「透、透、透……。哀れな器だな。はははは!」
乾いた笑い声。
次の瞬間、バキッという嫌な音が森に響いた。
厄災は、自分の右腕を引きちぎった。
血は出ない。
代わりに、ちぎれた断面から、黒い靄がもやもやと溢れ出る。
右腕を投げ捨てるように地面へ放り、厄災は歪んだ笑みを浮かべたまま、ハレビアを見る。
「これでも、まだ“守る”つもりか?」
挑発。
明確な、意図を持った言葉。
だがハレビアは、動じない。
焦りも、怒りも、敵意も、顔に出さない。
ただ、指先で三つのダイスを弾いた。
――もし、11が出たなら、ハロックのスピードを得る。
条件を心の中で組み立て、
転がるダイスの軌跡を視界の端で追う。
出目は、8。
「……外れ、か」
厄災は鼻で笑った。
「バカが」
その瞬間、地面を蹴る。
踏み込みは鋭く、直線的。
靄を左腕だけで操りながら、一直線に距離を詰めてくる。
ハレビアも同時に走る。
距離を詰めるのではなく、“並走”する形で角度を変え、靄の射線をずらし続ける。
右腕を失った厄災は、再生を選ばず、あえて左腕だけで攻撃を続けていた。
それは舐めているからではない。
この状況でも“勝てる”と、確信しているからだ。
――そして、次の瞬間。
空気が、歪んだ。
厄災の動きが、突如として変わる。
踏み込みの質が一段階上がる。
加速の仕方が、明らかに異質になる。
(……来たな)
ハレビアは悟る。
ダイスは外れた。
外れた代償として、効果は自信ではなく相手に付与される。
ただ速いだけではない。
ハロックのそれは、
自身にかかる空気抵抗を半減させ、
なおかつ、地に足が触れるたびに“加速”が上乗せされるという、極めて癖の強い性質を持つ。
本人の談では、
最初は制御できず、山を穴だらけにしたこともあるらしい。
この“加速”は、扱いを誤れば自滅する。
減速の術を知らなければ、止まれない。
案の定、厄災はそのスピードに適応できなかった。
一歩、踏み出すたびに、
速度が跳ね上がる。
制御できず、軌道修正も間に合わず、
次の瞬間、小屋へと激突した。
木造の壁が砕け、
屋根が吹き飛び、
粉塵が舞い上がる。
ハレビアは、立ち止まってそれを眺める。
「……策にハマったね」
さっきのダイスは、わざと外した。
11を出さず、
厄災に“奪わせる”ための布石。
ハロックのスピードは、扱える者でなければ毒になる。
その癖を知っているハレビアだからこそ仕掛けられた、単純で、しかし致命的な罠だった。
粉塵の向こうで、瓦礫が崩れる音がする。
厄災は、まだ立っている。
だが、その動きには、確かに“乱れ”が生じていた。
ハレビアは、次のダイスを指先で弄びながら、
静かに息を整える。
戦況は、ようやく“読み合い”の段階へと移り始めていた。
粉塵の向こうから、厄災がゆっくりと姿を現した。
瓦礫を踏み砕く足取りは軽く、明らかに――楽しんでいる。
さきほどまでの無機質な殺意とは違う、純粋な“興”が、滲み出ていた。
厄災はひとしきり笑った。
喉の奥で絡むような、不快な笑い。
そして、ハレビアをまっすぐに見据える。
「褒美をやる。数百年前には見せなかった術をな」
その言葉と同時に、低く、歪んだ詠唱が空気を震わせる。
「禍魂病巣」
空間が、ひくりと歪んだ。
次の瞬間、空中に巨大な“目玉”が出現する。
濁った白目、脈打つ血管、爛れたような虹彩。
それを中心に、四本の柱のような構造体が広がり、空間を縫い止めるかのように展開していく。
柱は直線ではなかった。
骨とも蔦ともつかない形でうねり、捻じれ、不快な角度で絡み合いながら、やがて歪な“枠”を形作る。
広さはざっくり、半径九百十メートル。
逃げ場を許さぬ、閉じた領域。
目玉を除いた異変は、それだけではなかった。
空が、赤い。
雲は黒く、重く垂れ下がり、まるで腐った臓腑の裏側のような色をしている。
ついさっきまであったはずの崩壊した小屋も、折れた木々も、流れていた川も、すべて消えていた。
地面は、どこまでも平坦な草原。
作られた舞台のように、無機質で、逃げ場のない広さだけが広がっている。
ハレビアは、息を呑むこともなく、ゆっくりと視線を巡らせた。
その中で、異様な“存在”を二つ捉える。
一体は、大きな黒一色の鳥。
翼を広げれば、馬車ほどの影を落としそうなサイズだ。
もう一体は、腕と脚が異様に長い人影。
関節の位置が曖昧で、立っているのか、ぶら下がっているのかも分からない不自然な姿。
黒い鳥を視界に入れた途端、耳鳴りが走った。
金属音のような高いノイズが、鼓膜の奥を引っ掻く。
思考にノイズが混じり、距離感覚が一瞬だけ狂う。
結界の内部は、厄災にとって明らかに“有利”な環境だった。
赤黒い靄は、先ほどよりもさらに速く、さらに鋭く動く。
刃のような軌道でハレビアの死角を縫い、地面を削りながら迫ってくる。
ハレビアは、それでも避け続けた。
足運びを細かく刻み、視界を広く保ち、致命線だけをずらす。
だが、耳鳴りは次第に酷くなり、やがてそれ以外の音が、ほとんど聞こえなくなる。
風切り音も、地を蹴る音も、靄が掠める気配も、すべてが遠のいていく。
その時、腕と脚の長い人影が、滑るように近づいてきた。
反射的に距離を詰め、触れた瞬間――
人影は、霧のように消えた。
だが、その直後、違和感が走る。
魔力を操作しようとした瞬間、身体の内側から引き裂かれるような痛みが走った。
筋肉でも骨でもない、“内側”を無理やり捻じられるような、不快な感覚。
(……なるほどな)
この結界は、厄災を強化するだけではない。
侵入者の“魔力操作”そのものを、内側から阻害する構造になっている。
使えば使うほど、削られる。
無理をすれば、そのまま動けなくなる類の罠だ。
思考がそこまで辿り着いた瞬間。
視界が、歪んだ。
厄災が、目の前に立っていた。
避ける間もなく、蹴りが腹部に叩き込まれる。
身体が宙に浮き、次の瞬間には地面を転がる。
息が一瞬、詰まった。
ハレビアは転がりながら体勢を立て直し、ようやく距離を取る。
その口元から、思わず乾いた笑いが零れた。
「……いや、これは……久々に、ヤバいな」
初めてだった。
ここまで明確に“詰み”の気配を感じたのは。
◇
結界の外――。
ハロックは、最後の異型の首を軽く薙ぎ払うように槍で貫いたあと、ふうっと息を吐いた。
辺りには、もはや原型を留めない異型の残骸が転がっている。
どれも致命点を正確に穿たれ、反撃の余地すら与えられていなかった。
神器『天津神乃尊』の切っ先から、粘ついた黒い液体が滴り落ちる。
「いやー、量だけは多かった〜。掃除する側の気持ち、考えてほしいよほんと」
軽口を叩きながらも、ハロックの視線は自然と奥へと向いていた。
さきほどから、森の向こうに“見慣れない光景”が広がっている。
明らかに異質な気配が渦巻いている一角。
あそこだけ、世界のルールが違うように歪んでいる。
興味本位。
それだけの理由で、ハロックは歩み寄った。
結界の縁へと近づいた瞬間、肌がひりつくような感覚が走る。
魔力の残穢を辿れば、はっきりと分かる。
(……ハレビアと……それから、透…じゃなくて厄災だ)
ハロックは結界の外壁へと手を伸ばした。
見た目には何もない。
だが、指先が触れた瞬間、硬質な感触が返ってくる。
コン、と軽く叩くと、ガラスを叩いたような乾いた音が響いた。
もう一度、少し強めに叩く。
返ってくるのは、同じ音。
「ふーん……外から中は見れませんよと……」
槍の石突きで軽く突いてみる。
カン、と高い音が鳴るだけ。
力を込めて突き出しても、衝撃は吸収され、世界に残るのは音だけ。
「へぇ……結構、頑丈なんだ、中で何してるか気になるんだよね」
いつもの調子で、何度か角度を変えて突く。
だが、結果は同じ。
割れる気配はない。
――はずだった。
次の瞬間。
槍先が触れた箇所に、細かなヒビが走った。
「……ん?」
ヒビは一瞬で広がり、結界の表面を蜘蛛の巣状に覆っていく。
乾いた音が、連続して鳴り響く。
パリン、と。
ガラスが砕けるような音と共に、結界が崩壊した。
空中に浮かんでいた巨大な目玉は、断末魔のようにひくりと痙攣し、そのまま霧散する。
柱のように広がっていた構造体も、灰のように崩れ落ち、赤い空と黒い雲は、嘘のように消え去った。
結界の内側にあった“異界”が、現実の森へと引き戻される。
そして――。
中から現れた光景に、ハロックは一瞬だけ言葉を失った。
地面から突き出した赤黒い靄の柱。
それに、空へ向けて串刺しにされるような形で貫かれているハレビアの姿。
靄は彼の身体を固定するように絡みつき、動きを封じている。
だが、致命傷には至っていない。
呼吸は浅いが、意識はあるようだった。
そのすぐ傍に立っていたのは――厄災。
肩と頬についた血を、無造作に手の甲で拭い、指先についた赤を一瞥する。
そして、気だるげに髪をかき上げた。
まるで、軽い運動を終えた後のような仕草だった。
「……うわ……えげつな」
ハロックは肩をすくめながら、ゆっくりと一歩、踏み出した。




