一瞬の一縷
ハロックとハレビアの視界の中心にいる“厄災”は、赤黒い靄を纏いながら、ゆっくりとこちらを見下ろしていた。
ハレビアは走り続ける。
敵意も殺意も、極力抱かないように。
それでも距離は詰めず、致命傷になりかねない軌道だけを読み切って、紙一重で避け続ける。
(……やっぱり、まだ“戻りきってない”)
頭の中で、彼は仮説を組み立て続けていた。
厄災の呪い――敵意や殺意に反応して発動する“因果の歪み”。
完全な状態であれば、意識した瞬間に“死”へと直結する現象が連鎖的に起きる。
昔、弱体化させた上で殺した時。
あの時は明確だった。
敵意を向けた瞬間に、地が腐り。
呼吸をした瞬間に、肺が焼け。
近くの村では疫病が発生し、偶然とは言えない速度で死者が増えた。
災害、疫病、腐食、事故――
あらゆる“死に繋がる不運”が、敵意を抱いた側へと集束する。
だが今は違う。
靄は不規則に動くが、決定的な“死の連鎖”には至っていない。
鳥が空から落ちることも、地面が腐り崩れることもない。
(目覚めたばかり……いや、器の問題か)
透の身体を“器”としている以上、全盛期の出力は出せていない。
呪いの判定範囲も、因果の歪みも、どこか甘い。
ハレビアは、それを確信に近い形で理解しながら避け続けていた。
その横で、ハロックは相変わらず軽い口調を崩さない。
「いや〜、近くで見るとやっぱ気持ち悪いよね〜。黒いモヤモヤとかさ」
だが、その身体は一切の無駄なく動いている。
神器《天津神乃尊》を構えたまま、必要以上に踏み込まず、ただ“近づかせない”距離を保ち続ける。
(……こいつ、頭は良くないからな…)
ハレビアは内心で苦笑する。
ハロックは理屈で考えるタイプじゃない。
だからこそ、厄災の呪いの“仕組み”を共有することはしない。
余計な知識は、下手をすれば“敵意”に変わる。
考えるのは、自分ひとりでいい。
その瞬間だった。
厄災が、ふっと赤黒い靄を引っ込めた。
空気が、わずかに冷える。
ハロックとハレビアは反射的に距離を取る。
だが、厄災は追ってこない。
代わりに、ゆっくりと口を開いた。
何かを“唱えている”。
言葉は古く、意味を掴もうとした瞬間、耳鳴りが走る。
大地が低く唸り、地面が波打つように揺れ始めた。
「……やばくない? これ」
ハロックが珍しく、少しだけ真面目な声を出す。
空間が歪む。
景色が、ぐにゃりと捻じ曲がったかのように見える。
そして――
空中に、門が現れた。
髑髏と天使が彫られた、巨大な両開きの門。
生と死、祝福と呪詛、そのどちらもを象徴するような異様な意匠。
厄災が、淡々と告げる。
「開門」
その言葉に応じるかのように、門は軋む音を立てながら、ゆっくりと開かれていく。
門の向こう側から漏れ出すのは、
風でも光でもない、
“嫌な気配”だけだった。
ハレビアの背筋を、嫌な予感が走る。
(……まずいな。これは)
全盛期じゃない。
それでも、これは“切り札”に近い。
開かれた先にあるものが何であれ、
ここから先は、今までの“足止め”の延長では済まなくなる。
ハロックは槍を強く握り直し、軽口のまま呟く。
「いや〜……なんかさ、開けちゃいけない扉って、こういう見た目してるよね?」
門の向こう側から、
“何か”が、こちらを覗き返していた。
門の内側が、ゆっくりと“見え始める”。
その瞬間だった。
耳をつんざくような悲鳴が、重なって溢れ出した。
老人の掠れた叫び。
子供の甲高い泣き声。
大人の、喉を潰すような断末魔。
それらが一斉に混ざり合い、音として成立しない“地獄”のような騒音となって、森に叩きつけられる。
ハロックは思わず顔をしかめる。
音量ではない。
“意味”が直接、脳を殴ってくる感覚。
「……うわ、最悪なんだけど……」
門の隙間から零れ出してきた空気は、黒かった。
ただの闇ではない。
粘つくようで、重く、どこか“感情”を帯びている。
それは人の顔のようにも見えた。
歪んだ目と口を無数に作りながら、悲鳴と共に溢れ出し、地面を這うように流れ、やがて――
すっと、跡形もなく消える。
悲鳴も、同時に途切れた。
静寂が、一瞬だけ訪れる。
だが、それは嵐の前の静けさだった。
門の向こうから、何かが“歩いてくる”。
異型の集団。
まず目に入ったのは、その大きさだった。
人の形をしているようで、していない。
個体差はあるが、どれも明らかに“戦うための体”をしている。
顔が上下逆に付いている個体。
足が一本しかないのに、腕が四本生えている個体。
顔が三つ重なり、互いに別の方向を睨んでいるもの。
首が異様に長く、地面を擦りながら歩くもの。
胸部に“口”のような裂け目があり、そこから呻き声を漏らすもの。
どれも共通しているのは――
“生き物”というより、“失敗した形”に近い存在感だった。
皮膚は黒ずみ、所々が爛れている。
関節は不自然に折れ曲がり、動くたびに骨が擦れる音がした。
それでも、動きは遅くない。
むしろ、獲物を前にした獣のような、嫌な統一感がある。
ハレビアは直感で感じた。
(……同じだ)
これは――透の“見えない扉”を開いた時に、現れた“あれ”と同種。
世界の外側。
存在してはいけない場所から引きずり出された、
歪んだ“住人”。
あの時と同じだ。
空気の重さも、視界のざらつきも、
何より、胸の奥がざわつくこの感覚も。
(厄災は……あの扉を“開け直した”)
しかも今回は、制御された形で。
透の時のような“事故”じゃない。
意図して、門を繋げている。
ハロックは、異型の群れを見ながら、乾いた笑いを漏らす。
「いや〜……見た目、グロすぎでしょ……。
これさ、夢に出たら最悪なんだけど…この前言ってたのってコレ?」
軽口はいつも通り。
だが、その目は一切笑っていない。
異型の群れは、ゆっくりと森へと足を踏み入れる。
木々の間を縫うように広がり、
獲物を探す視線を、ハロックとハレビア、そしてその奥にいる者たちへと向けた。
地面に、黒い影が伸びる。
門は、まだ閉じていない。
つまり――
“これで終わり”ではない可能性が高い。
ハレビアは、手の中でダイスを転がしながら、小さく息を吐いた。
(……数、増える前に叩かないと詰むな)
厄災は、その様子をどこか退屈そうに眺めていた。
厄災は、まずハロックを見た。
視線は、相手の“力量”ではなく、
その手にある神器――天津神乃尊そのものを測るような冷たさを帯びている。
次の瞬間、
赤黒い靄が地面から噴き上がるように立ち上がり、ハレビアとハロックの間に“壁”を築いた。
靄は脈打ち、呼吸するかのように形を変えながら、
二人の間の空間を強引に引き裂いていく。
向こう側にいるハレビアの輪郭が歪み、ぼやける。
そして、厄災は視線を異型の“ソレ”たちへ向けた。
合図も号令もない。
だが、異型たちは同時に動いた。
赤黒い靄に押し出されるように、
あるいは投げ捨てられるように、
全てが一斉にハロックへと“ぶつけられる”。
地面を抉り、木々をへし折りながら転がり込んでくる肉塊。
顔が逆さまについた個体、腕が異様に多い個体、
脚を引きずりながらも本能だけで突進してくる個体。
殺意とも呼べない、
ただ“ぶつかって壊す”という衝動の塊。
「まとめて来るとか、ほんと雑だしやめて欲しいんだけど!」
ハロックは一歩だけ後ろへ引き、
神器を軽く構え直した。
だが、その視線は一瞬、靄の向こう側――
ハレビアの方へ向く。
その一瞬で、ハレビアの視界からハロックが消えた。
厄災が、もう目の前にいた。
距離を詰める“動作”が存在しない。
気づいた時には、すでに間合いの内側に踏み込まれている。
ハレビアは反射的にダイスを投げようとした。
だが、指が動くより先に、衝撃が来た。
肩口に、鈍く重い衝突。
骨まで響く感触と同時に、体が横へ吹き飛ばされる。
幹に叩きつけられ、木が軋む音がした。
「……っ」
息を整える暇もない。
次の瞬間、髪を掴まれる。
頭皮ごと引き剥がされるような痛み。
そのまま、顔面を地面に押し付けられた。
土の匂い。
枯葉の感触。
視界が茶色に染まる。
厄災はそのままハレビアを引きずり、走った。
顔を地面に擦りつけられながら、
体が跳ね、削れ、引き裂かれる。
投げられ、宙を舞い、
背中から地面に叩きつけられる。
肺から空気が抜け、
一瞬、音が消えた。
追い打ち。
赤黒い靄が渦を巻き、ハレビアを包み込む。
視界は薄暗くなり、音が遠のく。
内側から、形の定まらない圧力が同時に襲いかかり、四方八方から押し潰されるような感覚が走った。
腕で受け、身を捻り、致命的な位置だけは外す。
それでも衝撃は確実に積み重なり、体の芯に重さが残る。
やがて靄が晴れた、その直後。
地面が歪むように盛り上がり、下から突き上げる衝撃。
体が浮き、今度は横からの一撃で吹き飛ばされる。
視界が一瞬揺れ、木々の影が流れていった。
「……はぁ」
ハレビアは地面に片膝をつき、ゆっくりと息を吐いた。
体中に鈍い痛みが残っているが、致命傷ではない。
受け流せたことを、冷静に確認する。
そして、思考を切り替える。
遠くで見えた、囚人が岩に潰された瞬間。
あれは“確実な死”ではなかった。
だが、“死に至りかねない流れ”を引き寄せていた。
「もし……今の不運が、
“死に直結する不運”じゃなくて――
“死になりうる不運”だとしたら……」
ハレビアは手のひらの上で、ダイスを軽く転がす。
カラ、カラ、と乾いた音が静かな森に溶ける。
視線の先で、肩を回しながらこちらを見ている厄災。
先ほどよりも、どこか楽しげに動いているように見えた。
ハレビアはわずかに口角を上げる。
「……退屈じゃなくなってきたっぽいね」
ハレビアの中で、いくつもの仮説と結論が高速で組み上がっていく。
元の透は“ドア”を開く存在。
そして今、目の前に立つ厄災は“門”を開く存在。
どちらも本質は同じ――“ゲート”だ。
透の固有魔法、ネクサスゲート。
あれは本来、世界と世界、空間と空間を繋ぐための“扉”のはずだった。
だが厄災が使ったのは、明らかに“門”だった。
開いた先から溢れ出したもの、現れた異型の群れ。
規模も性質も、透のものとは決定的に違う。
「……解釈が違う、か」
同じ固有魔法でも、使う際の“イメージ”が違えば、意味も結果も変わる。
透は“逃げ道”として扉を開く。
厄災は“災厄を呼び込む入口”として門を開く。
そして、もうひとつ。
呪いの効力が、確実に弱まっている。
敵意と殺意に反応するはずの“死に直結する不運”。
だが、今起きているのは“死に至りかねない不運”止まり。
致命の一線を越えていない。
目覚めたばかりで、まだ本来の位階に戻れていない。
ハレビアはそう結論づけた。
次の瞬間、厄災が首の骨を鳴らし、空気を踏み抜く。
距離が一気に詰まる。
殺気ではなく、純粋な“圧”だけが迫ってきた。
「……」
ハレビアは小さく息を吐き、ほとんど聞き取れない声量で何かを呟く。
そのまま、手の中のダイスを放った。
転がるダイス。
乾いた音。
目は一瞬たりとも逸らさない。
そして――
ハレビアは、ただの“蹴り”を放った。
空気を切る音は控えめ。
動きも派手ではない。
だが、その一撃を受けた瞬間、厄災の体が異常な速度で吹き飛ぶ。
地面を削りながら転がり、強引に受け身を取る厄災。
体勢は立て直した。
だが、蹴りを受け止めた腕は、不自然な角度で垂れ下がっている。
……一拍遅れて、へし折れていたことが分かる。
厄災は眉一つ動かさず、その腕を引き寄せる。
赤黒い靄が絡みつき、骨格が元の位置へと戻っていく。
歪みが解消され、腕は何事もなかったかのように再生された。
「やっぱり、効いてるね」
ハレビアは、ダイスを受け止めながら肩を回す。
目に浮かぶのは、確信に近い手応え。
今の一撃。
質量を“上げた”結果だ。
ハレビアは、ダイスの出目を当てた。
その結果、借り受けたのはクリスティアの固有魔法。
質量の変化。
対象の質量を操作する能力。
上限まで引き上げれば引き上げるほど、魔力消費は跳ね上がる。
だがその代わり、破壊力は単純明快に凶悪になる。
その上、この質量は、重力に縛られない。
動きが鈍るわけでも、落下速度が変わるわけでもない。
“軽いまま、重い”。
その矛盾した負荷を、相手にそのまま叩きつける。
ハレビアの蹴りが“ただの蹴り”に見えたのは、
動きの速度や軌道が変わっていなかったからだ。
変わっていたのは――
その一撃が持つ“重さ”だけ。
ハレビアは、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「……どう?
思ったより、効くだろ」
軽い調子でそう言いながら、視線は厄災から外さない。
遊びではない。
だが、ようやく“勝ち筋”が見え始めた。
厄災の退屈は、完全に消えていた。




