最低最悪の
厄災の周囲で、赤黒い靄が渦を巻き始めた。
空気が、明確に重くなる。
血と煤を混ぜたような色のモヤが、地面から、空間の隙間から滲み出るように集まり、厄災の足元へと吸い寄せられていく。
魔力――ではない。
もっと根源的で、生理的な嫌悪を伴う“何か”。
靄は蠢きながら形を成し、歪な輪郭を描く。
裂け目が走り、その中心に巨大な口が生成された。
異様に大きな顎。
並ぶ牙は生物のそれとはかけ離れ、鋸のように不揃い
で、粘ついた液体を滴らせている。
「ギ……ァァ……」
喉を引き裂くような、不快な鳴き声。
聞いただけで、精神が削られる。
狙いは迷いなく――
ラグとキールだった。
ラグは反射的に剣を構える。
キールも歯を食いしばり、魔力を練ろうとする。
だが、距離が近すぎる。
間に合わない。
そう思った、刹那。
黄色い閃光が、視界を切り裂いた。
音は来ない。
いや――音が届く前に、すべてが終わっていた。
次の瞬間、ラグとキールの視界が反転する。
地面が遠ざかり、風が叩きつけられる。
「――っ!?」
抱え上げられていた。
乱暴で、迷いのない腕。
だが、その力は正確で、無駄がない。
「はいはい、そこまでねー」
軽く、気の抜けた声。
ハロックだった。
亜音速。
正確には、それに限りなく近い速度で踏み込み、赤黒い“口”が噛みつく寸前に、二人を掴み上げて距離を取った。
数十メートル。
瞬きひとつ分で、戦場の外。
遅れて、背後で凄まじい破壊音が響く。
牙が空を噛み、地面を抉り、木々が薙ぎ倒される。
ハロックはそのまま着地し、ラグとキールを放り出すように下ろした。
「いやー、マジで今のはアウト寸前だったんだけど…」
肩を軽く回しながら、ちらりと二人を見る。
「そのまま立ってたら、確実に死んでたよ?」
ラグは息を荒げ、振り返る。
赤黒い靄は未だ蠢き、厄災の背後で不気味に形を保っている。
「…」
ハロックはゆっくりと前を向く。
その表情から、いつもの軽さが薄れていた。
「はぁ……」
小さく溜息。
「1回負けたんだからそれっきりで大人しくしてればいいのに…」
肩に担いだ槍――神器『天津神乃尊』が、わずかに鳴動する。
空気抵抗を受け、周囲の風が歪み始める。
ハロックは一歩、前へ。
「聞いてる?“負け犬”くん」
声は軽い。
だが、魔力の圧は明確に変わる。
「その身体さ、うちの知り合いのなんだよね」
視線は、赤黒い靄の奥――
厄災そのものを捉えている。
「勝手に使われると結構困るんだけど」
黄色い閃光が、さらに強く瞬いた。
ハロックは軽く肩をすくめ、余裕めいた態度を崩さないまま、内心で状況を測っていた。
(……面倒なのが出てきたなぁ)
かつて、一度だけ殺した存在。
だが、あの時とは条件がまるで違う。
(弱体化の術式は無し。
援護も無し。
こっちは単騎、向こうも単騎って言っても使徒……)
戦力差は歴然。
それでも――恐怖は無い。
だからこそ、ハロックは挑発を続ける。
「いやー、でもさ。
前に会った時より、だいぶ静かじゃない?」
軽口。
だが、その裏で、視線は一切逸らしていない。
厄災が、ゆっくりと口を開いた。
その声は、透のものではない。
重く、濁り、空間そのものを震わせる音。
「……哀れだな」
低く、嘲るように。
「平和に浸かりすぎた。
緊張感も、殺意も、鈍っている」
赤黒い靄が、脈打つように膨らむ。
「数百年前よりも……
お前たちは随分と“弱く”なった」
空気が歪む。
言葉そのものが、精神を削る圧を持っている。
「そして――」
厄災は、確信を込めて言い切った。
「今は俺の方が有利だということにも気づかないか?」
次の瞬間。
赤黒い靄が、不規則に形を変えながら、奔流のようにハロックへと襲いかかった。
直線ではない。
波打ち、裂け、枝分かれし、回り込むように迫る。
殺意の塊。
だが――
「おっと」
ハロックは、軽く一歩ずれる。
それだけで、靄は空を切った。
地面に触れた瞬間、土が炭化し、抉れ、爆ぜる。
直撃していれば、身体など残らない。
(……やっぱり)
ハロックは、避けながら冷静に観察する。
(速いけど前より遅い)
かつて殺した時の靄は、思考と同時に到達する速度だった。
今のこれは――目で追える。
(目覚めたて。
実力、まだ戻ってないな)
だからこそ、ハロックは反撃しない。
神器『天津神乃尊』を構えながらも、突かない。
斬らない。
殺意を向けない。
ただ、避ける。
敵意を向ければ、相手はそれを糧にする。
殺意を乗せれば、靄はさらに鋭くなる。
(相手は“厄災”。
感情で戦うタイプじゃない)
一歩、二歩、三歩。
紙一重で靄をかわし続ける。
「へー。
その割に、当たらないね」
あくまで軽く。
「有利って言う割には、焦ってなーい?」
靄が、わずかに乱れる。
ほんの一瞬――だが、確実に。
ハロックは、それを見逃さなかった。
(図星、か)
神器が、静かに唸る。
空気抵抗が、少しずつ蓄積されていく。
「……さて」
笑みを消し、目を細める。
「そろそろ準備運動は終わりかな」
赤黒い靄は、執拗だった。
逃げても、避けても、まるで意思を持つ獣のように、ハロックだけを正確に追尾し続ける。
波打ち、分裂し、回り込み、逃げ道を塞ぐ。
避けるたびに、靄は学習しているかのように動きを変えてきた。
「……チッ」
ハロックは舌打ちし、距離を取りながら大きく息を吸う。
「ラグ!キール!」
森に響くほどの大声。
「敵意と殺意は絶対に持つな!」
一瞬、靄の圧が強まる。
「これは攻撃じゃない、呪いに近いから!
抱いた感情を“燃料”にして、不運を引き寄せるタイプ!」
避けながら、なお言葉を続ける。
「敵意が強ければ強いほど!
殺意が濃ければ濃いほど!
死に直結する確率が跳ね上がるから〜!」
ラグとキールは、息を呑む。
理解が追いつかなくとも、本能で察した。
(……触れたら終わるやつだ)
その間にも、靄は形を変える。
流体のようだったそれが、突然、構造を持ち始めた。
骨組み。
格子。
編み込まれるように、上下左右から迫る赤黒。
「……なるほど」
ハロックは目を細める。
「鳥籠、か」
回避空間を奪うための形状。
逃げ続ける相手への、明確な“対策”。
一瞬、対応が遅れた。
靄の格子が、ハロックの周囲を囲む。
完全ではないが、逃げ場は急激に減っていく。
(…まっずいかも)
神器を振るえば、破壊はできる。
だが、殺意を向けた瞬間に何が起きるか分からない。
避ける。
かわす。
それでも、じわじわと――幽閉に近づいていく。
その時だった。
カラン、と乾いた音。
森の中を、場違いなほど軽い音が転がる。
「はは」
間の抜けた笑い声。
「相変わらず、趣味悪いねぇ……厄災は」
赤黒い靄の外側。
軽やかな足取りで走りながら、ハレビア・クージュルが姿を現す。
片手の中で、ダイスが踊っていた。
「ちょっと賭けさせてもらうよ」
走りながら、ダイスを四つ放る。
地面に落ちる前。
回転している最中に、ハレビアは口を開いた。
「……もし合計が十三なら、この鳥籠は崩壊する」
次の瞬間。
ダイスが地面に跳ね、転がり、止まる。
出目の合計は――
十三。
その瞬間。
鳥籠のように形成されていた靄が、内側から弾け飛んだ。
格子が崩れ、構造が破壊され、霧散する。
まるで「存在を否定された」かのように。
ハロックは、解放された空間に一歩踏み出し、肩を回す。
「助かった。さすが賭塊王」
「でしょ?」
ハレビアは軽く肩をすくめながら、視線を厄災へ向ける。
笑っている。
だが、その目は一切笑っていない。
「さて……」
ダイスを、もう一度手の中で転がす。
「ここからは、運だけじゃ済まなさそうだ」
ハロックは肩を回し、骨を軽く鳴らしながらハレビアを見る。
「で、囚人はどしたの?」
ハレビアは少し溶けてしまった左肩を見せて、肩をすくめる。
「なんとか気絶させたよ。
科学者っぽいのは木の枝に吊るしたまま失神中。
あと、なんか見えないやつは……自滅させた」
「へー、上出来じゃん」
ハロックは特に驚きもせず、軽く頷く。
するとハレビアが、
「あっ」と思い出したように言葉を続ける。
「キミこそ囚人はどうしたんだい?」
ハロックは一瞬だけ視線を逸らす。
「え?あ〜…1人は近接フルボッコ、もう1人は逃がしたよ。今はこっち優先かなって。」
それを聞いたハレビアは、
思わず呆れたように小さく苦笑してから、背伸びをする。
「逃がしたって…相変わらずだね」
そのまま視線を前方――厄災へと移す。
一方その頃。
ラグとキールは互いに目を合わせ、無言で頷いた。
自分たちは完全に足手まといだと判断し、
ギルメザとミナミを探すため、森の奥へと走り去っていった。
◇
一方、ステラは防戦一方を続けていた。
森の奥、裂けた大地と倒木の隙間を縫うように、無数の光が生まれては消える。
ロギアの背後に展開された魔力の陣から放たれるのは、一本一本が致命傷になり得るほど圧縮された矢。数は十や百では済まない。雨のように、いや嵐のように空間を埋め尽くす。
だが——
そのすべてが、途中で“消える”。
音もなく、衝撃もなく。
ただ、存在していたはずの矢が、途中で細切れになり、霧散していく。
不可視の惨劇。
ステラの魔法が、空間そのものを切り裂き続けていた。
矢は威力を失い、速度を失い、方向性すら保てないまま崩れていく。
ステラの元に届いたものは一本もない。
ステラ自身は、ほとんど動いていなかった。
足を踏み出すことも、距離を詰めることもなく、ただその場に立ったまま、最低限の動きで斬撃を重ねる。
その様子を見て、ロギアは歯を噛みしめる。
「……ねえ」
声が、森に響いた。
「なんで、殺したの」
矢を放つ手は止まらない。
だが、その声には明確な感情が乗っていた。
「……あのお父さんとお母さん。
あたしのお父さんとお母さんを」
ステラの眉が、わずかに動く。
「家に残ってた魔力……あれはあんたのだった」
ロギアは続ける。
「ずっと、ずっと探した。
あの村に残ってた“痕跡”。
あたしを置いていった、魔力の癖」
矢がさらに増える。
怒りに呼応するように、魔力の密度が跳ね上がる。
「だから分かったの。
あたしの家族を殺したのは、あんたなんだって」
ステラは小さく、息を吐いた。
溜息だった。
斬撃を放ちながら、彼女は一歩も動かない。
降り注ぐ魔力の矢を、まるで面倒な雨を払うかのように、淡々と落としていく。
(……そう来るか)
内心でそう思う。
目の前で両親が殺されたこと。
自分が連れ去られる直前、無意識に——いや、必死に残した魔力の痕跡。
自分の癖が強く出るそれを、「誰かが見つけてくれるかもしれない」と願って刻んだもの。
それが、仇になった。
まさか、その痕跡を辿った先で、
“殺した犯人”として憎まれるとは。
「違う」
ステラは、矢を斬り落としながら口を開く。
「私は——」
弁明しようとした、その瞬間。
「聞きたくない!」
ロギアの声が、鋭く遮った。
魔力が爆発的に膨れ上がる。
放たれる矢の一本一本が、先ほどまでとは比べものにならないほど歪み、尖り、殺意を帯びる。
「どうせ、嘘でしょ」
「どうせ、自分は悪くないって言うんでしょ」
「そうやって、全部切り捨ててきたんでしょ!」
ステラは口を閉ざした。
斬撃だけが、答えの代わりに空を裂く。
彼女の表情は、変わらない。
だが、その瞳の奥には、ほんの僅かに——
過去を思い出す色が滲んでいた。
弁明は、届かない。
この憎しみは、もう言葉の届く場所にはない。
ステラは理解していた。
だからこそ、彼女は動かない。
避けず、逃げず、ただ防ぎ続ける。
——殺すか。
——気絶させるか。
その答えの天秤が、傾き始めていた。
ステラは、決めた。
もう迷わない。
この憎しみは解けない。言葉も届かない。なら——終わらせる。
一気に間合いを詰める。
一直線ではない。まだ辛うじて立っている木々を使い、視線を切り、姿を断続的に消す。幹の陰、枝の影、跳躍と着地。そのたびに存在が途切れ、ロギアの視界から“ステラ”が抜け落ちる。
次に見えた時には、もう近い。
「——っ!」
気づいた時には遅かった。
ステラの手のひらが、首元へ迫る。
距離はゼロ。
斬撃は振るうものではない。触れた瞬間に、空間ごと断つ。
不可視の刃が、首を撫でる軌道に入る。
ロギアは抵抗しようとした。
魔力を練り上げ、押し返そうとするが——間に合わない。展開する前に、思考が追いつかない。
それでも、目だけは逸らさなかった。
睨みつける。
憎しみと恐怖と、理解できないという感情を全部乗せて。
ステラは、その視線を正面から受け止めたまま、無表情で——
◆
一方その頃。
厄災は、ハレビアとハロックによって完全に足止めされていた。
赤黒い靄は何度も形を変えては襲いかかるが、決定打には至らない。追い、避け、崩し、また追う。膠着した殺し合い。
一方、クリスティアは血まみれの囚人2人を引きずりながら、ギルメザ、ミナミと合流する。
さらに捜索を続け、ようやくラグとキールも発見し、全員が揃った。
「……聞いてくれ」
キールが、起きたことを簡潔に伝える。
「透が……変なんだ。おかしくなった」
ラグが言葉を継ぐ。
「いや、変になったっていうか……厄災の使徒っていう奴に、乗っ取られてる」
その言葉に、クリスティアは少し不機嫌そうに眉を寄せ、深いため息をついた。
ミナミは「乗っ取られた」という言葉だけで、色々な憶測が飛び交って大泣き。
ギルメザは状況を飲み込めず、
「は?」
と、間の抜けた声を出す。
クリスティアは視線を伏せたまま、静かに口を開いた。
歴史から消された存在――【厄災の使徒】について。
その説明を、四人に向けて語り始めた。




