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消された悪魔

ステラは、連れていかれる途中で歯を食いしばった。

髪を掴まれ、引きずられながらも、ほんの一瞬だけ意識を家の中へ向ける。

残っている魔力は、驚くほど少なかった。

それでも、ゼロではない。

指先にわずかに魔力を集める。

自分にしか分からない癖――魔力の流れ方、滲み方、歪み。

床、壁、柱の影。

ほんの微量。

だが確かに、そこに「在った」という痕跡。

(……分かるだろ)

誰に向けた祈りかも、もう分からない。

それでも、残した。

それから数日後。

ステラは研究所にいた。

地下深く。

外の光は届かない。

手足は鎖で固定され、身動きは一切取れない。

椅子に縛り付けられたまま、与えられるのは点滴だけ。

栄養。

薬品。

何か分からない液体。


周囲はすべてガラス張りだった。

反射する自分の姿は、痩せ細り、目だけが異様に大きい。


視線を動かす。

隣、向かい、奥。

そこにいるのは、子供たちだった。

自分と同じくらいの年齢。

魔族、人間。

怯えた目、虚ろな目、すでに感情が死んでいる目。

誰一人、声を上げない。

声を上げても意味がないことを、知っているから。


やがて、足音が近づく。

ガラスの向こうで、数字が動く。


順番だ。

ステラの前に、白衣の人間たちが集まる。

頭部に、コードが繋がれる。脳へ直接。

意識が揺れる。

視界が歪む。

何かを抜かれ、

何かを入れられ、

何かを入れ替えられる。

理解できない操作が続く。

次は、身体。

針。

刃。

管。

刺される。

貫かれる。

穴が開く。

痛覚は、最初のうちだけだった。

やがて、それすら麻痺する。

限界まで弄られたあと、治癒魔法がかけられる。

ゆっくりと。

じっくりと。

治すためではない。

壊すために、また使うためだ。

それが、何時間も続く。

終わると、一人が紙に何かを書き留める。

淡々と。

興味もなく。

そして、隣の子供へと移動する。

ステラは、天井を見つめていた。

涙は、もう出なかった。

抵抗する気力は、なかった。

叫ぶ意味も、祈る意味も、もう分からなかった。

(……無理だ)

心の奥で、何かが折れた。

それから数ヶ月。

時間の感覚は、すでに曖昧だった。

日付も、昼夜も、意味を失っている。

今度は、脳への刺激が増えた。

光。

音。

魔力。

何度も、何度も、何度も。

何かを探るように。

何かを組み替えるように。

ある日。

突然だった。

胸の奥に、異物感が走る。

今まで感じたことのない、感覚。

冷たい。

重い。

それでいて、確かに「在る」。

研究員たちが、ざわめいた。

誰かが、データを凝視する。

誰かが、こちらを見る。

その視線は、初めて向けられる種類のものだった。

期待。

興奮。

確信。

ステラの内側に、灰色の光が灯ったような感覚があった。

色も、形も、はっきりしない。

だが、確かにそこにあった。

遠くで声が聞こえる。

「ついに移植に成功したぞ!」

その言葉が、妙にはっきりと耳に残った。

周りを見渡す。

子供たちは、減っていた。

八割が、死んでいた。

動かない。

腐敗が進み、異臭が漂う。

それでも、片付けられない。

データが必要だから。

「結果」として、そこに置かれている。

ステラの目には、もう光はなかった。

かつての、

幼くて、

純粋で、

笑っていたステラは、

そこには、もう居なかった。

ステラは小さく溜息をついた。

戦闘の最中とは思えないほど、静かな仕草だった。

視線の先には、ロギアの矢が穿った木々の跡。

幹は抉れ、断面は焼け焦げ、音速を超えた衝撃がそのまま形として残っている。

(……ロギア・アジャンスタ)

名乗りを聞いた瞬間から、引っかかりは消えていなかった。

同じ姓。

そして――名。

妹と同姓同名。

偶然だと切り捨てるには、出来すぎている。

視線を走らせるたび、ロギアの動きが脳裏に重なる。

攻撃の癖。

間合いの取り方。

執拗なまでの殺意。

(仮定するしかないな)

もし、あれが妹だとしたら。

記憶の中で、積み木を崩しては笑っていた、あの子だとしたら。

ステラの中で、冷たい計算が回り始める。

殺害するか、気絶させるか。

致命傷はいつでも与えられる。

だが、気絶で済ませるには力加減が必要だ。

ロギアは、明確に自分を憎んでいる。

理由は分からない。

だが、その感情だけは、偽りがない。

(……面倒だ)

思考を切り替える。

今は戦闘中だ。

感情を優先させる場面ではない。


折れた木々と抉れた地面が、すでに複数の戦闘が起きたことを物語っている。

空気には、焦げたような匂いと、微かな血の気配が残っていた。

宙に浮いていた男──先ほどまで敵として存在していたそれは、もはや“形”を保っていない。

槍による貫通。

距離を詰めてからの殴打。

引力による浮遊能力など意味を成さないほど、ハロックは徹底的だった。

ラセルは木に突き刺さったまま動かず、戦闘不能というより、完全な無力化に近い。


「はいはい、終了〜。引力操れてもさ、痛いのは痛いよね」


ハロックは軽く肩を回し、血の付いた槍と拳を払う。

その視線は、すでに次の相手へ向いていた。

少し離れた場所。

刀を構えたまま動かない一人の男。

ルザリオによく似た刀士。

顔立ちだけでなく、佇まいまで似ている。

だが、決定的に違うのは――静かすぎることだった。


「でさ」


ハロックは距離を保ったまま、気楽な声で話しかける。


「名前は? あと出身。ついでに、今まで何して生きてきたかも教えてほしいんだけど」


返事はない。

刀士は、視線だけをハロックに向けている。

殺気はある。

だが、それを誇示するような雑音が一切ない。


「無口タイプか〜。じゃあさ、どっかの国の兵士? それとも傭兵?」


一歩、踏み出す。


「それとも、最初から“そういう役目”で作られた感じ?」


その瞬間。

間合いが、一気に詰まった。

地面を蹴る音すら、ほとんど聞こえない。

刀が振るわれる。

ハロックは反射的に身を捻る。

刃は避けた――が、完全ではない。

肩口に、鋭い痛み。

皮膚が裂け、血が一筋走る。


「……あ〜、今のはちょっと危なかったかも」


軽く距離を取りながら、肩を見る。

かすり傷。

致命傷ではない。

だが、相手の動きは理解した。

(速さだけじゃないなぁ、無駄がなさすぎる)

刀士は構えを解かない。

質問にも答えない。

ただ、斬るためだけに、そこにいる。

ハロックは小さく息を吐き、口角を上げた。


「なるほどね。じゃあさ――」


視線が鋭くなる。


「もう少し本気で、聞いてみよっか」


音が、追いつかない。

踏み込んだ瞬間に鳴るはずの地響きも、風を切る衝撃音も置き去りにして、ハロックの身体だけが前へ出る。

視界が歪むほどの速度。

森の景色が一枚の絵のように引き延ばされる。


「っと……ここだよね」


軽口とは裏腹に、動きは一切の遊びがない。

ハロックの手には、一本の槍。


それは“神器”と呼ばれる類のものだった。

神器――

特別な血筋や才能を持たぬ者であっても、握った瞬間から“そこそこ戦える存在”へと引き上げる武器。

鍛錬も理屈も超え、「神が作った」としか思えない挙動を見せる兵装の総称。

そして、ハロックが扱う神器はその中でも異質だ。

天津神乃尊ことあまつかみ

一見すれば、装飾も少ない白銀の槍。

だが、その真価は“突き”にのみ現れる。

この槍は、突き出されるまでの約0.8秒間に受けた空気抵抗を、そのまま威力へと変換する。

速度が速ければ速いほど。

突進距離が長ければ長いほど。

空気を裂き、押し潰し、引き剥がした分だけ――威力が跳ね上がる。

つまり。

今のハロックの加速は、すでに“溜め”に入っている。


「――っ!」


刀士は即座に理解した。

正面から受ければ、終わる。

構えた刀を振るうより先に、鞘を投げ捨てる。

否、“犠牲にする”と言った方が正しい。

飛来する鞘を、槍の穂先がかすめた瞬間。

空気抵抗が一瞬だけ乱れ、槍の軌道が僅かに逸れる。

紙一重。

本来、胸を貫いていたはずの一撃が、脇を掠めて通り過ぎる。


「……やるじゃん」


ハロックが言い終えるより早く。

刀士は、その“逸れ”を逃さなかった。

踏み込み、腰を落とし、全身を使った一閃。

凄まじい威力の斬撃が、横薙ぎに振るわれる。

空気が爆ぜ、木々がまとめて吹き飛ぶ。

衝撃波のような斬り込み。

ハロックは、反射的に後方へ跳ぶ。

だが完全には避けきれない。


胸元を、鋭い衝撃が掠めた。

「……っ、はは」


息を吐きながら、ハロックは笑う。

服の一部が裂け、皮膚に熱が残る。


(鞘を捨てて即攻撃に繋げる判断……即興じゃない)


刀士は、すでに次の構えに入っていた。

無言。

だが、その一太刀には、迷いも躊躇もない。


「なるほどね〜」


ハロックは槍を立て直し、目を細める。


「名前聞かなくても分かりそ――」


言い切る前だった。

刀士の気配が、明確に“変わる”。

腰を深く落とし、刀を逆手に構える。

構えそのものは静かで、むしろ隙だらけに見えた。だが、その静止は“溜め”ではない。

空間そのものに、細かな軋みが走る。

次の瞬間、刀士が低く、しかしはっきりと言い放った。

「――細裂空処瀑」

音は、なかった。

否。

正確には――一瞬で“すべて振り切った”あとに、時差で世界が壊れ始めた。

空間が、細かく裂ける。

無数の斬撃が、雨のように“そこにあった”。

それは振るわれた斬撃ではない。

空間そのものが、刃として再定義されたかのような現象。

一閃、二閃。

否、数える意味がない。

斬撃は一瞬で発生し、到達は遅れてやってくる。


「……っ」

ハロックは即座に魔力を展開した。

反射的に、ほぼ本能で。

多層・高密度の防御。普通なら“過剰”と言われるレベル。

だが、この技は対象の“魔力量”に反応する。

魔力が多ければ多いほど、

その魔力を“切るための刃”が、より鋭く生成される。

守れば守るほど致命傷へと近づく。

次の瞬間。

遅れていた斬撃が、すべて“来た”。

腹部が裂ける感触。

内臓が冷たい空気に晒される。

右腕に走った違和感の正体を理解するより先に、重さが消えた。

地面に、音を立てて何かが落ちる。

――右腕だった。


「……あ、これか」


ハロックは、自分の腹を見下ろす。

ぱっくりと開いた傷口。

出血は激しいが、致命ではない。

右肩から先が無いことにも、数秒遅れて気づく。


「マジか〜……」

それだけだった。

声色は、いつも通り。

驚きはあるが、恐怖はない。

慣れている。

この程度の欠損も、この程度の痛みも。


「なるほど……」


息を吐きながら、ハロックは刀士を見る。

「魔力が多いほど死ぬ技、ね。性格悪いじゃん」


刀士は何も言わない。


ただ、あの特殊な構えを解き、静かに次へ備えている。

血の匂いが濃くなる。

そしてハロックは、失った右腕を一瞥してから、にっと笑った


「もうやーめた」

ハロックはそう言って、間の抜けたように背伸びをした。

裂けていた腹はすでに塞がり、地面に落ちていたはずの右腕も、いつの間にか元の位置に“在る”。

再生は一瞬。

痛みも、躊躇も、痕跡すら残らない。


「じゃ、次で終わらせよっか」


次の瞬間。

音が消える。

音速など比較にもならない速度で、ハロックは槍を構えたまま距離を詰めた。

刀士の視界に映ったのは、正面から迫る“突き”の軌道。

――だが、それは囮だった。

直前でハロックの重心が沈む。

槍を突く動きのまま、軸足が滑り込み、低く鋭く――


足を払う。


「……っ」


体勢が崩れる。

ほんの一瞬、地に近づいたその瞬間を、ハロックは逃さない。

体勢を立て直す前に、槍が――

「――」

刀士もまた、即座に反応した。

倒れ込みながら、刃を反転させ、狙うのは首。

相打ち。

そうなるはずだった。

だが。

その瞬間、森が――止まった。

空気が、重く沈む。

肌にまとわりつくような、言葉にできない違和感。

ハロックの動きが、止まる。

刀士の刃も、止まる。

鳥が一斉に飛び立ち、逃げる。

獣の気配が、森の奥へと消える。

「……これ」

ハロックの表情から、軽さが消えた。

「…あーあ、最悪」

刀士も、無言のまま周囲を見渡す。

森のどこかで、“何か”が目を覚ました。

二人とも、それ以上動かなかった。

戦闘よりも優先すべき“異常”を、確かに感じ取っていたからだ。

――――――――――

「……っ、ぁ……!」

息が、うまく吸えない。

ラグとキールは、もう限界だった。

目の前では、カローナが楽しそうに笑っている。

「あははは!!ハハハハハハハハハ!!」

その笑い声が、直接脳に突き刺さる。

耳から入っているはずなのに、頭の内側で反響して、思考をぐちゃぐちゃにかき回す。

一方で、カイムが低く息を吸い――声を発した。

「――ア」

それだけで、空気が爆ぜる。

衝撃波。

避けきれなかったラグが吹き飛び、木に叩きつけられる。

「ラグ……!」

叫びたいのに、声が出ない。

喉が震えるだけで、言葉にならない。

透自身も、もうボロボロだった。

切り傷、打撲、裂けた皮膚。

血で視界が滲み、足元がふらつく。

――死ぬ。

その言葉だけが、頭の中で何度も回る。

怖い。

逃げたい。

でも逃げられない。

思考だけが、異様な速度で回転する。

どうする、どうする、どうすればいい、扉は今ここで

出せるのか、それでも出せない、でもこのままじゃ―

「っ……くそ……」


口は回らない。

叫べない、助けを呼べない。

ただ、脳内だけが、うるさいほどに騒いでいた。

そのとき――

透の胸の奥で黒い鼓動が打ち始めた。

ドクン、ドクン、と。

心臓とは違う。

もっと深いところ、意識の底を叩くような、不快な脈動。

耳鳴りが強くなる。高音が途切れず鳴り続け、音というより“圧”に近い感覚が、頭の内側を締めつけてくる。

視界が揺れた。地面が傾き、立っているのか倒れているのかすら分からなくなる。

「……っ、う……」

胃がひっくり返るような吐き気。

喉の奥が熱くなり、呼吸をするたびに胸が軋む。

――マジで死ぬ。

その恐怖が、今までよりもずっと濃く、重く、輪郭を持って迫ってくる。

逃げ場はない。助けも来ない。そう確信させるほどの圧倒的な不安。

ドクン。

ドクン。

黒い鼓動は、次第に早く、強くなっていく。

まるで“何か”が目を覚まそうとしているかのように。

そして――

最後に。

胸の奥で、黒い鼓動が大きく跳ねた。

ドクン――――ッ。

世界が、一瞬だけ静止した。


そして、透の身体が、ふっと地面から離れた。

重力を忘れたかのように、血に濡れた足先が宙に浮き、そのまま――立ち上がる。


「……は?」


思わず、ラグの口から素の声が漏れた。

隣のキールも同じだ。状況を理解しようとして、完全に思考が止まっている。

それを見て、カイムは首を傾け、骨を鳴らすようにゆっくりと首を回した。

ゴキ、と嫌な音が響く。

「やっと、かァ……」

声が弾んでいる。

今までの退屈そうな表情は消え、心の底から愉しんでいるのがはっきりと分かる。


「やっとやる気になったか、クソガキ…!」


その横で、カローナはさらに笑い声を高くした。

甲高く、耳に刺さるような笑いが森に反響する。

「アハ、アハハハハッ……! 」


――だが。

透は、何も言わない。

俯いたまま、表情は見えない。

ただ、明らかに“いつもの透”ではなかった。

両腕に、異変が走る。

肩口から、肘へ。

肘から、前腕、手首、そして指先まで。

まるで鎖が絡みつくように、黒い線がじわじわと浮かび上がっていく。

血管でも、紋様でもない。

不規則で、歪で、どこか生き物めいた線。

次の瞬間。

赤黒い靄が、透の全身を一瞬だけ包み込んだ。

煙のように揺らぎ、しかしすぐに――霧散する。

そして。

透の口が、ゆっくりと開いた。

だが、そこから出た声は、透のものではなかった。

低く、乾いていて、感情の温度が一切感じられない声。

「……空気が不味いな」

その一言で、場の空気が凍りついた。

ラグも、キールも、言葉を失う。

カイムの笑みが、わずかに歪み。

カローナの笑い声が、一拍だけ、途切れた。

――“厄災”が、目を覚ました


厄災は、ゆっくりと身体を動かした。

まず、背骨。次に首。

一本ずつ確かめるように、内側から鳴らしていく。

ゴキ、ゴキ、と不快な音が森に溶けた。

それから、視線を巡らせる。

森の奥。

重なり合う気配の向こう。

――ステラ。

――ハロック。

――ハレビア。

――クリスティア。

四つの存在を“感じた”瞬間、厄災の顔がわずかに歪んだ。

嫌悪と苛立ちが混じった、不快そうな表情。

「……忌々しい」

低く呟き、振り返る。

その瞬間。

4人は、まるで縫い止められたかのように動けなかった。

身体ではない。魂そのものを押さえつけられている感覚。

沈黙の中で、ただ一人。

カイムが、口を開いた。


「……厄災の使徒、だよなァ」


声は慎重だったが、内側には確かな欲が滲んでいる。


「オレたちに力を貸せ。世界をぶっ壊すのに、お前の力は――」

言い切る前に。

厄災は、眉をひそめた。


「断る」


即答だった。

理由も、迷いもない。

その一言に、カイムの表情が歪む。

苛立ちが露骨に浮かび、足が一歩、前に出た。

「……あァ?───」

再び声を出そうとした、その瞬間。

――音が、しなかった。

衝撃波は発生しない。

代わりに、カイムの口から噴き出したのは、大量の血だった。


「――っ、が……!?」


喉を押さえ、目を見開く。

指の隙間から、止めどなく血が溢れ落ちる。

声を出そうとするたび、血が溢れる。

肺に空気が入らない。

喉の“内側”が、完全に壊されている。

カイムは膝をつき、そのまま倒れた。

それを見て。

カローナが、笑った。


「アハハハハハハハハッ!!」


高く、甲高く、狂ったような笑い声。

敵意を隠そうともしない、純粋な悪意。

笑いながら、厄災を見つめる。

その瞬間。

カローナの足元が、何もない場所で、唐突に崩れた。


「――ッ!?」


声にならない音とともに、身体が前のめりに倒れる。

そして───


鋭く尖った木の枝が、喉を正確に、貫いた。

「……が、ぁ……」


それでも、笑う。

血を吐きながら、喉を貫かれたまま、なおも笑い声を上げる。

「ァ、アハ……ハハハハハハッ……!!」

その敵意が、さらに強まった瞬間。

――折れかかっていた、一本の木。

さきほどまでの戦闘でひび割れていたそれが、傾き、

近くにあった巨大な岩に、倒れ込む。

岩が、動いた。

重力に従い、ゆっくりと、だが確実に。

次の瞬間。

轟音とともに、岩が落下し――

カローナの身体を、完全に押し潰した。

笑い声は、途切れた。

血と肉が、地面に広がる。

赤黒い水たまりが、森の土を染め上げる。

静寂。

その中心で、厄災はただ立っていた。

何もしていない。

触れてすらいない。

それでも、すべてが終わっていた。


厄災は、ゆっくりとラグとキールへ視線を向けた。

ただ、それだけ。

威圧も、殺気も、意図的には放っていない。

それでも、二人の喉が自然と鳴る。

「……なぁ」 ラグが、ほとんど口の中だけで呟く。

「厄災の使徒、って……」 キールも声を潜める。

「……トオルが言ってたヤツ、だよな」

互いに、目を合わせる。

答えはすぐに出た。

使徒は神話に近い存在だ。

だが、伝承に名が残るのは“都合のいい”存在だけ。

歴史から消された使徒。

透が以前言っていた、聞き覚えのない使徒。

会話を終えた二人を、厄災は無感情に見下ろしていた。

敵意は、もうない。

恐怖と困惑だけが、露骨に滲んでいる。

それを確認すると、厄災は一言だけ告げる。

「去ね」

短く、冷たい声。

命令ですらない。

存在を許すかどうか、その境界線を示しただけの言葉。


去れ、と言われたにもかかわらず。

二人は、動かない。

沈黙が、重く落ちる。

最初に動いたのは、ラグだった。

ふらつく足で一歩前に出る。全身は血と泥にまみれ、剣を握る腕も震えている。

それでも――剣先は、厄災へと向けられた。

敵意はない。

殺意も、勝てると思ってもいない。

それでも。

「……それ」

ラグの声は掠れていた。


「それ、トオルの身体だ」


厄災の表情は、変わらない。

ラグは歯を食いしばり、続ける。

「変われ、なんて言わねぇ。せめて…トオルに戻してくれないか」

弱者の抵抗だった。

無謀で、無力で、それでも引けない一線。

キールもラグの横に立つ。

武器は構えない。ただ、逃げないという意思だけを示す。

厄災は、静かに首を傾げた。

まるで、理解できないものを見るように。

「戻す、だと?」

低く、歪んだ声。

確実に透の声ではない。


「これは“使ってやっている”だけだ」


厄災は一瞬だけ目を細めた。

怒りではない。

苛立ちでもない。


空気が、軋む。

だが、攻撃はしない。

殺意も放たれない。


厄災は、ゆっくりと自分の手を見下ろした。

黒い鎖のような線が走る、透の腕。


「…このガキに体の主導権を返してやってもいい。どちらにせよ、好都合だからな。こいつが死ねば、俺は器からの脱却を果たし、再びこの世に生まれ堕ちる」

厄災は視線を上げ、ラグとキールを見る。

その視線は問いかけなどではない。

確認だ。

ラグは、一瞬だけ目を伏せ――そして、剣を下ろさなかった。


厄災はこの行動を理解した上で、更なる不快感を感じた。

「……厄介だな、弱者とは」

その呟きとともに、黒い鼓動が再び、低く脈打った。

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