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危険信号

 突如として、視界が弾けた。


 ──ゴガァァン!!


 鈍く、凶悪な音。気づけば、透の身体は空を舞っていた。腹部に何かが深くめり込むような激痛。次の瞬間には、アヴィア城の廊下の窓を突き破り、外の森の中へ叩きつけられていた。


 「……ッぐ、ぁ……!」


 痛む腹を押さえる余裕もなく、咳き込むたびに口の端から血がにじむ。肺が焼けるように苦しく、目の前が霞んでいた。


 「──あ」


 短く、低く。


 その一言が、再び空気を裂いた。


 次の瞬間、全身が激震に襲われ、地面ごと突き上げられたような衝撃に包まれる。衝撃波だ。地面がえぐれ、土埃と瓦礫が舞い上がる中、透はバウンドするように空へ吹き飛ばされた。


 「はっ……が、ッ……!?」


 咄嗟に体勢を整えようとしたその刹那。


 目の前に現れた黒い影が、凄まじい勢いで迫る。


 「もう一発、いっとくかァ?」


 カイムの声が耳に届いた瞬間、透の横腹に強烈な蹴りが突き刺さる。


 鈍い痛みが腹をえぐり、骨の軋む音が脳に響く。重力に逆らって再び地面へと落ち、背中から地面に叩きつけられる。


 「……っ、がは……っ!」


 吐き出された息とともに、血が喉を焼いた。


 立ち上がろうとする透の前に、カイムがゆっくりと歩み寄る。その瞳には、敵意でも狂気でもない。ただの興味。獲物をじっくり解体する前の、静かな好奇心が浮かんでいた。


 「逃げんなよ。まだ、ぜんっぜん足りてねぇんだからよォ」


 透は諦めず、痛みと恐怖で震える目を必死に動かし、打開策を考える。


 「ネ……クサス、ゲート……ッ」


 自分のちょうど落下地点、そこに魔力を集中させる。紫の光が浮かび、扉の形がゆっくりと形成されていく。戦略的撤退。それしか助かる道はない。


 だが、その希望は、またしても踏みにじられる。


 「あは、は、はっ……!」


 甲高く、不気味な笑い声が響いた。


 思考が一瞬で濁る。


 視界が揺れ、魔力が散る。扉が形成を途中でやめ、バラバラと崩れ落ちた。


 「っ……!」


 その場に降り立ったのは、一人の少女だった。


 カローナ。


 細身の体に淡いピンクの髪。表情は明るく、だがその瞳には底知れない狂気の色が滲んでいた。


 「アハハハッ……ははっ……!」


 意味など存在しない。感情もない。ただ、狂ったように笑い続けるその姿に、透の背筋が冷たくなる。


 カローナは足を軽く上げ、透の足首を踏む。


 「ぐっ……!」


 粉砕されるほどの力ではない。だが、確実に神経を削ぐ痛み。


 続けて、カイムが前に出る。


 「てめぇの“中身”、どこにいるんだ? まだ寝てんのかァ?」


 透の襟元を掴むと、そのまま宙に持ち上げる。


 「“あ”」


 カイムが呟くと、再び空気が爆ぜた。


 直後、透の全身が激震に襲われ、呼吸が一瞬で奪われた。耳がキーンと鳴り、視界が白く霞む。


 「あはははっ……!」


 カローナの笑い声がさらに追い打ちをかけるように神経を狂わせる。頭が割れそうに痛い。自分がどこにいるのかも、何をされているのかも、わからなくなる。


 「……あ、が……やめ……ろ……」


 言葉にならない声。


 透の喉から漏れたのは、懇願か、嘆きか、それともただの呼吸音だったか。


 カイムは口角を歪め、鼻を鳴らす。


 「つまんねーなァ…もうちょい喋れよ」


 肩に拳が落ちる。骨にひびが入ったのが分かる。だが、意識はまだ残っていた。


 (耐えろ……今だけ……こいつらは俺を……壊すためだけに来てる……!)


 透は唇を噛み締め、意識を現実に繋ぎ止める。


 「……ネク……サ……」


 再び魔力を集中させた瞬間、


 「あはっ! あっはははっ!!」


 カローナが地を蹴った。軽やかに、鮮やかに跳躍し、透の背に着地。


 そのまま、背中に体重をかけて踏みつける。


 「っぐああッ!!」


 背骨にかすかな痛み。肺の奥に空気が届かない。



 カイムが、笑っていた。


 そして、カローナの笑い声が、また空に響く。


 「あはははっ、あっはっはっはっ!!」


 その笑いだけが、透の神経を削り続けていた。


 終わらない拷問のような時間が、淡々と、残酷に流れていく。


 森の中。木々の隙間から午後の陽光が斜めに差し込み、影と光がまだら模様をつくっていた。


 その空間に、凄惨な光景があった。


 透は地面に伏せ、顔を上げるだけで必死だった。口元からは血が滴り、左肩は不自然に曲がっている。鼻からは止まらぬ出血。目の焦点が定まらず、全身の節々が軋んだ。


 地面に這いつくばる透を見下ろすのは、カイムだった。先ほどまで彼の蹴りや拳が容赦なく透の体を打ち据えていた。その度に骨が軋み、肺が圧迫され、視界が真っ白になった。


 その横には、窓から追ってきた少女──カローナが立っていた。無邪気に笑いながら、小石を指先で弾き飛ばしては透の背中にコツコツと当てている。


「あっははっははは! ねえ、ねえ、痛い?あははっ!!」


 森の中に響く少女の高笑いは、空気を引き裂くように透の耳を貫いた。心の奥底にある恐怖を無理やり引きずり出すような音だった。


 その時――。


「トオルッ!!」


 ラグの怒声が森を貫いた。


 すぐ後ろから木々をかき分けてラグとキールが飛び込んできた。透の姿を目にした瞬間、ラグの顔から血の気が引く。キールも一瞬だけ絶句したが、すぐに足を踏み出す。


 だが。


 カイムの右足が、地を打った。


 まるで火薬の爆発のように、地面が抉れ、カイムの体が風のように前へ出る。


「ッ……!」


 次の瞬間には、キールのすぐ傍にカイムがいた。その移動は視認すら困難だった。


「“あ”」


 その一音が、地獄の鐘のように響いた。


 カイムの口から放たれた短い発声──固有魔法による衝撃波が解き放たれる。破裂するような音とともに、森の地面が裂け、木の枝が弾け飛ぶ。


 しかしキールは、その一瞬を“聞いていた”。


 訓練の中で鍛え抜かれた聴覚が、カイムのわずかな息遣い、足の角度、地の鳴りから、魔法の発動を読み取っていた。


 体が自然と動く。反射で左に跳び、右肩から地面を滑るように転がる。


 同時に、ラグは右へ。敵の挙動を目で捉え、筋肉を最短距離で収縮させて跳ねる。視力の良さと訓練で培った反射が、紙一重の回避を可能にしていた。


 風が唸る。カイムの衝撃波が二人の直前をかすめ、後方の大木を粉砕した。


────避けたと思ったのも束の間。

「───アハハハハハハハハハッ!!!!!!!!」


 カローナが周囲一帯に聞こえる大声で笑い出す。その声は、まるで鋼鉄を引き裂くような金属質の共鳴を持っていた。


「……ぐ、ッ……あああッ!!」


キールが頭を抱え、膝を突いた。鼓膜を内側から引っ掻かれるような痛み。脳が揺れ、意識が歪み、地面がぐにゃりと曲がって見える。他の音なんて何も聞こえない。ただ笑い声が脳内を支配する。


 固有魔法を所持せず、この世に産まれるものは、五感のどれかが発達している。

彼が生まれた瞬間、神から贈られた物とは。

それは『聴力』。そのため、魔力を乱し目眩や頭痛を起こすと同時に、精神をも蝕むカローナの笑い声は拷問にも等しい。


「キール!」


 ラグが振り返る。しかし、声をかけた直後、背筋に冷たい汗が流れた。


 カイムがまた足を構えていた。


 だが今度は、わずかに角度が違った。


(今度は、俺……!?)


 咄嗟にラグは前傾姿勢に入り、左足を踏み込む。その反応速度は、わずか1週間前の自分とは別人だった。


 それでも。


 目の前の“敵”を前に、ラグの体は震えた。


 恐怖だった。


 透をあの短時間で叩き潰したその力。


 キールを破壊しかけた笑い声


 そして、自分の視線の中でも読み切れない“速さ”。


 ラグは肩を震わせ、息を殺しながら、目の前の敵を見据えた。


 そして、


「……なんだよ、これ……」


 口元が引きつる。


 苦笑いだった。笑うしかない、という表情。


 理解が追いつかない。だが、戦わなければこっちが殺される。


 震える拳に、力を込める。だが、それは決意ではなく、“怖いから”だった。


 そんなラグの前で、再びカイムが右足をゆっくりと地につけた。


 彼の瞳が、殺意だけで染まっていた。


「“あ”」


 第三の音波が、空間を裂こうとしていた──。



◇ ◇ ◇


アヴィア城の西、城壁のそのさらに外。深くうねる森の頭上、空は真っ青に澄んでいた。


その場に立つ者は三人。いや、正確には一人浮いている。もう一人は風のように気配を薄め、木々の陰に溶けていた。


ハロックは、両腕を上げて背中を反らし、気持ちよさそうにストレッチをしていた。天王の名を持つその女は、ストレッチを終えると、やや面倒そうに軽く手を振った。


「で、名乗ってくれるのは浮いてるきみだけ?」


返答したのは、空を浮かぶ“男”。姿はあるが影がない。逆光のように目の焦点が合わず、直視するとやや頭が痛くなる。そんな“彼”が、不意に小さく笑い、名乗った。


「……俺は“ラセル”。ただの亡命者だ。もともとこの世界の住人じゃない」


「へ〜、よそ者ってこと?じゃあ私が誰だが知ってる〜?」


そう言った瞬間、ハロックの姿が掻き消えた。


雷鳴にも似た風切り音とともに、彼女は一気にラセルの背後に回っていた。槍を大上段から振り下ろす。腕筋が唸る。だがラセルはふわりと横に移動し、その一撃を軽く避けた。


「遅いな」


「うわ、今の避ける?結構やるね」


ハロックの声は明るい。まるで軽いゲームでも楽しむかのような口調。しかし、その表情には僅かな緊張が走っていた。


彼女の背後、静かに構えていたもう一人の男――ルザリオに似た者──が、ゆっくりと一歩、足を前に出した。


刀を腰に据え、まだ一切の動きを見せていない。だがその気配には、尋常ではない圧があった。


「……あの人、まだ動かないんだよね?ずっと構えてるけど……やだな〜、不気味じゃん」


ハロックは軽く鼻を鳴らしつつ、ラセルの方に再び意識を戻す。


「空中戦、得意な方?」


「……誰よりもな」


ラセルが指を鳴らした瞬間、空気がひしゃげた。


そこにあった空間が一瞬だけ消え、ラセルの身体が瞬間移動のように後方へ跳ぶ。だがハロックも負けていなかった。


「じゃあ、こっちも遠慮なく!」


彼女の足が一度地を蹴った──その軌道のまま、垂直に跳躍する。


超高速で宙を駆け上がる天王。その手に握られた長槍は、風を裂いて一直線にラセルへと突き出される。空気抵抗などまるで無視。彼女の槍は雷のように鋭い。


しかしラセルもその突きを正確に読み、反転しながら軌道をずらす。空中での身のこなしはまるで無重力の舞い。


「チッ……読まれすぎ……」


ハロックがつぶやいたその瞬間、風鳴りとともにもう一つの気配が迫る。


──来る。


刹那、彼女の本能が叫んだ。


地上から、地を蹴ったのはあの無名の剣士。構えたまま微動だにしなかった男が、ほんの一瞬で眼前に迫っていた。


その目は動かず、感情の欠片もない。


次の瞬間、斬撃。


風を裂き、音が消え、世界が止まったような無音の間。


ハロックは身を捻って躱す。その直後、彼女の頬に血が滲んだ。


「わ、あっぶな……!ちょっと切れたんだけど〜」


軽く言うも、実際には心臓が跳ねていた。


(今の……見えなかったような……)


ハロックは内心で分析する。敵の“刀士”は一瞬だけ世界から“切り離された”ように動いた。その一撃は、速度ではなく“間合いを歪める”かのような─。


(……ありゃりゃ、普通にやってたら死ぬやつだ、これ)


ハロックは不意に苦笑した。


そして再び槍を握り直す。戦略を変える必要があった。


「よし、じゃあまずはそっちの浮いてる子から〜。お名前ラセルくんだっけ?」


「面白い女だな」


ラセルが笑う。空を撫でるように片手を振る。空中に一瞬、幾何学的な模様が浮かび上がった。それが破裂した瞬間──重力の法則がねじれた。


ハロックの身体が、空へと引っ張られる。


「うわっ、引力操作?めんどくさ……!」


しかし、ハロックはその重力の渦中で回転を始める。身体を水平にし、周囲の気流を逆手に取って自らを弾丸のように飛ばす。


高速回転する槍が、ラセルの喉元へ──。


「……っ!」


ラセルが両腕を交差させて防ぐが、その衝撃に空中で弾かれる。彼の身体が木々の上にまで飛ばされていく。


地上では、無名の刀士が再び構えを解いた。


「……次はそっち?意外とめんどくさいコンビじゃんか……」


ハロックが苦笑する。


それでも彼女は一歩前へ出た。


ここで退けば、透や他の仲間に迷惑がかかる。戦う理由はそれで十分だった。


(──うん、“戦場”変えないとまずいかも)


ハロックは次の瞬間、両足を一気に蹴り地面を抉る。


砂埃を巻き上げながら地上を駆け、意図的にラセルとの距離を広げ、同時に刀士との交戦距離を歪める。


複数戦では、空間の制御と“間合いの主導権”が重要だ。


彼女の“頭”は常に冷静だった。


(一対二を逆手にとる。交差点を作って、同士討ちを狙うか……)


ニヤリと口元が歪む。


ハロックは、ただ速いだけの女ではなかった。


戦場を“作る”女なのだ。



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