雨の日に
青年はこの夜、ある用事を済ませて帰宅する最中であった。
それでも、この日は彼の通う大学の授業だとかアルバイトだとか、そういった業務的なものではなくいたって私的な用事であったとだけ記しておく。
帰り道、雨がしとしとと降り始めた。
昼間、出かける際は晴れていた。そのため帰りに降るとは思わなかった青年だが、幸い、所持している鞄の中には折り畳み傘が入っていたためそれを差した。
シンプルな黒い折り畳み傘である。
それから青年は、自宅から十五分くらいでさしかかる帰宅ルートの山道へと入って行く。
山道をしばし進んだところには決まっていつも外灯が一本だけ立っている。
懐中電灯も持っておらず、現在のわずかの星明かりもない山道ではそれが道中唯一の光源であった。
うねった緩やかな傾斜を進んで行くと、予想通り二十メートルほど先には外灯が立っていた。
そして、闇夜にコウコウとする外灯の手前には人影も立っていた。
それを見て、青年は立ち止まる。
木々が両脇に生える暗い夜道、雨の降るなか外灯の光を背にした人影の顔をはっきりとうかがうことはできなかった。
青年は目を凝らしその人影を見る。すると、ボンヤリとだがその容姿をうかがうことができた。
線の細い体躯。いまいち性別は分からないが多分男だろうと予想する。
急な雨だったためか、その人は傘を持ち合わせていないようだ。
外灯に照らされ全身をびしょびしょにして突っ立っているのが容易に想像できた。
青年がここまで確認すると同じくらいにして人影はゆっくりと山道を下山し始めるのだった。必然、青年との距離は縮まってゆくかたちとなる。
それでも、この時青年は近づいてくる人影を前にしても不思議と来た道を引き返そうという気持ちにならなかったのだ。そもそも、こんな人通りの滅多に無い道で前から人が来るのでどうしたものか、とにかく立ち止まろう。そして、自分同様にこんな真夜中に山道を出歩いているのは一体どんな人なのか少し見てやろう。そのくらいに呑気に考えていた。
徐々にその人は青年の方へ近づいてゆく。
それにつれ、ボンヤリとしかうかがうことのできなかったその人の容姿がだんだんとはっきりしてくる。
それゆえ、見えてくる。
その人が「ただの人」ではないことが。
一言で言おう。その人の顔は『ヒト』ではなく『猫』であった。
もっと分かりやすく表現すると、その人の頭部は『猫の着ぐるみ』の『アタマ』であった。
よく遊園地やイベントで子供達に風船を配っているあの愛らしい着ぐるみの、かぶり物である。
これをきき、「なんだよそれ」と嘲笑する人もいるかもしれない。「どこが怖いのやら」と聞き流す人もこの世にはいるかもしれない。しかし、それでも、雨の降る暗い夜道。傘も差さずそんな人がどんどん自身へ近づいてくる、そんな状況に実際に直面してしまった時、人は果たして今のように平気な顔をしてすましていられるのだろうか?
青年はこの時、自分の意思とは反して動けずにいた。
金縛りにあったように。
『猫のヒト』はどんどん青年の方へ近づいて行く。
歩くごとに足音が黒い道路に木霊する。
ぴちゃっ…
五メートル。
ぴちゃっ…
四メートル。
ぴちゃっ…
三メートル。
ぴちゃっ…
……1メール。
ぴたっ。
『猫のヒト』は、青年の前まで来ると、はじめから決めていたかのように立ち止まった。
向かい合うと、青年よりも背が高い。
この状況に青年は動けないでいた。そして、作り物のファンシーな猫の『目』から目をそらせないでいた。
「……カナ、タ……」
それは家族の名前か、それとも友人の名前なのか、それとも目の前の『彼』のことなのか?
それは今となっては何も分からないことだった。
青年がそう何かを呟いた直後、おもむろに『猫の人』は片手を青年の方へ向かって伸ばすのだった。
「っ!」
何かされる! 青年が自身の腕で顔を庇ったその瞬間、
(がさっ……)
「?」
青年は、恐る恐る前方を見た。
「……は、花?」
『猫のヒト』の雨に濡れた片手には、露の滴る野草が握られていた。それは、山に生える野草の花束であった。青年はこの状況に呆然と立ち尽くしていた。
そして、この奇天烈怪奇な状況で気づくことができなかった。『猫の人』の雨に濡れて赤黒くなったセーターの、垂れ下がったもう片方の袖の奥には鋭く光るモノがあることに……
『猫のヒト』は何も言わず黙っている。ただ、着ぐるみの顔だけは終始笑っていた。
○●※●※●※●※●※○
時間は経過し、夜が明けた。
昨夜のしとしと雨はしだいに大粒となり、日を越して朝日が昇る頃には降り止んで青空が広がった。そして辺りの地面のあちらこちらに水溜まりができた。
それでも不思議なことに、とある山道の途中にできた一ヶ所の水溜まりだけ、絵の具を混ぜたような赤色となっていた。その傍らには、空中から一度に落下させたように青やら黄色やら紫の小花をつけた野草が雨露をちらちら反射させながら散らばっていた。それからどこから飛んできたのか知れない、黒い折り畳み傘が開いた状態で転がっているのであった。
この光景を初めに目撃する人が出るのは、あの雨の日の出来事がとっくに終わってずっと後のことであった。
(完)
ありがとうございました
雨の日はふと、こんなの書いたなあと思い出します。