9. 市場
寝るために着替えを終えたエリウスはリリルに「ありがとう」と言った後、顔をしかめた。その表情がかわいすぎて、リリルはどきっとした。
「ぼく、結婚しちゃった」
「あれは結婚ではないですよ」
「そうなの?」
リリルはエリウスの顔を見て恋に落ちてしまったけれど、どんな人物かは知らないのだった。実物の彼はあまりにも、幼い。実際、この人の頭は大丈夫なのかしらと思うこともあったが、好きだったから、それは無視していた。
頭がどうこうではなくて、エリウス様はあまりにピュアすぎるというか、世間知らずというか、常識の外に住んでいるお方なのだった。だから、心配で仕方がない。
「あれはただの紙ですからね。結婚ではないです」
とリリルは空元気を出し、笑顔を作った。
「紙だけで済むだろうか」
「済むに決まっています。この後はセシリア様に継いでもらいましょう」
「でも、姉上が来なかったら?」
「そのときは逃げましょう」
リリルは笑いながら、腕を曲げて逃げるふりをした。
「リリルはいつも明るくて、いいね」
リリルは無言で掛け布団をめくりながら、エリウスにベッドへ入るように促した。
「その先、一週間、ありますからね。私がよい案を考えますから、エリウス様は安心してお休みください」
布団をかけながら、リリルはひとり言をつぶやいた。
心が見えなくて、よかったわ。もし今、誰かが私の心の中を覗いたとしたら、暴風雨に地震、津波が巻き起こっているから。
*
この突然やってきた幸運な一週間を、無駄にはしたくなかった。リリルはすぐに手紙を書いて、エルヴィンのもとに届けさせることにした。
内容はリリルが考え、エリウスがそれを文章にして書いた。やはり学校に行った王子は学がある。これまで、何かと頼りない行動が多かったので、リリルはうれしかった。
リリルには、もしかしたら、セシリアがエルヴィンと逃げたのかもしれないとも思ったりしていた。それと、宮廷に戻ったと思われるソフィラにも、手紙を書いた。ソフィラは自分と同じくらいの学力なので、自分で書いた。
エルヴィンとソフィラからの返事が届くと、もっとセシリア様のことがわかるだろう。あとは待つだけである。
「エリウス様、陛下が帰られるまでの一週間は自由時間です。せっかくここにいるのですから、何か特別なことをしてみませんか?」
手紙の配達を頼みに行って戻ってきたリリルが楽しげに言った。
「特別なこと?」
「たとえば、男子の姿に戻って町に行くとか」
「町?」
エリウスの瞳が輝いた。
「市場なんかに行くというのは、どうですか?」
「そんなことができるの?」
「できます。陛下からなんでも頼んでいいと言われたので、馬車を用意してもらいます。馬車の中では顔をマントで隠して、でも馬車から降りたら、自由です。エリウス様のことは誰も知りません」
「それ、いいね。リリルは頭がいい。女子のドレスや靴にはもう飽きたよ」
「そうでしょ?じゃあ、やりましょう!私が段取りしますから、エリウス様はメイクを落としてください」
二人は馬車で町の大きな市場へと連れて行ってもらった。三時間後に迎えに来るように指示を出した。
「すごいなぁ。こういう場所には、来たことがない」
「エルナリス国でも?」
「王室の規則なんだ。ぼくは、これまで規則をやぶったことがないのだよ」
「そんなの、つまらなくないですか」
「うん。姉上は行っていたけれどね。姉上は、規則は破るものだと言っていた。ぼくには勇気がなかった」
「規則を破りたいとは、思っていたのですか」
「うん」
「じゃ、今日からは、やりたいことをやればいいのではないですか」
「そうだね。リリルと話していると、何でも、できそうになるよ」
市場は春の陽光がいっぱいで、露天の店先には新鮮な野菜や果物が並べられ、笑い声や、値段を交渉する声が響き渡り、活気と熱気があふれていた。
「僻地の国だと聞いていましたけど、こんな賑やかな場所は、エルナリス国にはなかったです。国が栄えているのがわかります」
「そうだね。いろんな顔の人がいるね。外国からも集まってきている」
「ほら、黒い顔の人や、褐色の肌の人、それに見たことのない髪型の人もいます」
「みんな、どこから来たのだろう?」
「黒い顔の人たちは熱帯から、髪型の違う人たちは温暖な気候の地域からでしょうか」
「じゃあ、あの陛下はどこから来たと思う?」
「陛下の髪は黒くて、顔は褐色で立体的、背も高くて……。どこからなのでしょうね」
「今度、聞いてみようかな」
「でも、長い会話は危険ですから、気をつけてくださいね。チャンスがあったら、私が聞きますから」
「そうだね」
市場には、色とりどりの布や、様々な香辛料の匂いが立ち込め、人々が忙しそうに行き交っていて、まるでお祭りのようである。リリルは古着屋に行って、二枚の男性用の農着を買った。
「それ、穴があいているよ」
「これがいいの」
「どうするの」
「いざ逃げなければならなくなった時に、使います」
「そうか。女子の恰好で逃げるよりも、いいね」
とエリウスが胸元で合わせてみた。
エリウス様ときたら、ボロ着でも、似合ってしまうわ、とリリルは感心した。
通りの両脇に並ぶ屋台からは、魚や肉の匂いが漂い、野菜や果物の鮮やかな色が目を引く。屋台の主人たちは客を呼び込む声をあげ、手際よく商売をしている。どこからともなく、子どもたちの笑い声や、商人たちの掛け声が響き渡る。市場の中央には小さな音楽隊がいて、楽器を奏でながら歩いている人々を楽しませていた。
「この場所は本当に賑やかだな。生命力を感じる」
「ええ、だれもが、みんな精一杯生きているからですよね」
「こんなに色んな人が集まっていると、ちょっと怖い気もするけど」
「怖がらなくても大丈夫。私は市場には慣れていますから」
「どうして」
「私、こういう場所で育ったんです」
「そうなんだ」
人々が行き交う間を縫って歩きながら、リリルが話を続けた。
「ほら、あそこに見えるのは新鮮な魚を売っているお店。あれは、今日の朝捕れたばかりの魚です。市場の賑わいが、どんどん広がっていく感じがするでしょう?」
「ほんとだ。見て、あっちの店では香辛料が山積みになっている」
「香辛料の匂いが鼻を突き抜けますね。特にこの辺りのスパイスは珍しいものが多くて、他の国から仕入れているものもあります」
「リリルはこういう場所、慣れているけど、ぼくは人にぶつかってばかりだよ」
「はい。ちょっとコツがあります」
リリルは肩を押しだす恰好をした。「こうやって、割り込んでいくんです」
「リリルは市場で何をしていたの?」
「お餅を作って売っていました。野草を集めて、それを混ぜたお餅を売っていたんです」
「売れた?」
「まあまあ」
「いくつの時?」
「十歳くらいからです。八歳の時に奉公先から逃げ出して、それからずっとひとりで生きてきました」
「すごいね、リリルは。大変なことはあったのかい」
「それはありましたけど、危険を感じたらすぐに逃げるので、足が速いんですよ」
「そうか。リリルは、いろんな経験をしているんだね」
とエリウスが空を見上げた。「陛下はどんな人なんだろう?」
「エリウス様、陛下のことが気になるのですか?」
「そういうわけではないけど」
「気をつけなければなりませんよ。あの方は経験が豊富ですから、誘惑の仕方もよく知っておられます」
「そう思う?」
「エリウス様は恋の経験がないので、陛下にしてみれば口説くのなんか、赤子の手をひねるようなものでしょう。あっと言う間に、署名をさせられてしまったでしょう」
「あれには驚いたけど。ぼくは恋の経験がないわけじゃないよ。恋をしたことがあるんだよ」
「そうなんですか。いつ?」
「五歳くらいの時だけれどね」
リリルは少し驚き、そして微笑んだ。なんてかわいらしい王子なのでしょう。
「リリルはどうなの?」
「私には、憧れのお方がいます」
「誰?」
「それは秘密です」
「リリル。ぼく達の間に、秘密はないはずだろう」
ぼく達の間、ですって。 えっ、いつそんなこと、約束したのだろうか。どちらにしても、うれしい。
「どんな人」
とエリウスが少し睨んだから、リリルの心臓がドキンと跳ねた。
「とてもすてきな人ですけど、ちょっと世間にうとくて、ちょっとがっかりしたこともあるんですけど、」
「それは残念だねぇ」
それはエリウス様、あなたのことですよ。
「その彼は、どうして世間にうといの?」
「頭がばかなんです」
「ほんと?」
「うそですよ。頭はいいんです。ただ、知らないだけ」
「でも、知らないというのは罪だよね」
だから。
そういうところが世間を知らないところだと言うんですよ。
「そうなんだ。リリルはそういう人が好きなんだ。リリルのことをもっと知りたい」
「私はエリウス様付きの女官になったばかりで、こうして出かけるのも初めてですから、まだお互いのことがよく分かっていません。私も、エリウス様のことがもっと知りたいです」
「そうだね、なんだかずっと前から一緒にいる気がしていたけど」
「私のことは少しずつ話していきますので、エリウス様も自分のことを教えてくださいね」
「わかったよ」
楽しすぎる時間には羽根がついているようで、あっという間に過ぎていった。
「あそこに迎えの馬車が来ている」
とエリウスが残念そうに言った。
オレンジ色に染まる空の下、迎えの馬車がゆっくりと近づいてきた。
エリウスは名残惜しそうに市場を振り返り、マントで顔を隠した。
「リリル、ありがとう。久しぶりに男の姿で町を歩けて、本当に楽しかった」
リリルにとって、エリウスとの三時間が、宝物になった。彼と出会ってから、たくさんの宝物をもらったけれど、またひとつ増えた。なんて、幸運に女子なのだろう、私って。
もっと遅く迎えに来てもらえばよかったなぁ。でも、まだ明日がある。