8. 署名
その頃、レオナルドはセシリアを抱き上げた自分の手を眺めていた。
過去の裏切り、無数の悲しみと苦しみ、それらすべてが彼の心を封じ込め、「もう、誰も信じない」と決めたはずだった。
だが、セシリアは違った。出会った瞬間に、この方は違うと感じた。
彼女は、子供の頃に出会った少女と似ている。無垢で純粋なその瞳に、なぜか、彼の意志とは無関係に、心が彼女の純粋な瞳に強く惹き寄せられてしまうのだ。
ふとセシリアの顔を思い出して、微笑んでいる自分がいるのだ。恐ろしいとさえ、思う。
成人してから数えきれないほどの女性と出会ったが、あの少女のような女性は一人もいなかった。
前に付き合った女は「あなたには、心の底から愛せる人なんかいない」と捨て台詞を残し、平気な顔をしていたものの、実はそれはぬぐい取れない呪縛となっていた。
しかし、セシリアは違う。
彼女こそが、探し求めていた人なのかもしれない。ついに出会えたのかもしれない。
自分はこれまでこれほど饒舌でも、親切でもなかった。しかし、セシリアにはすぐに会いたい。何かをしてあげたい。喜ばせたいという気持ちが湧いてきて、自分自身で驚いている。
これではだめだ。
女に溺愛してばかりに、国を滅ぼした国王はたくさんいるのは知っている。
少し、冷めなくてはいけない。
そうなのだ、この私が必要なのは、エルナリス国の血を引いた王妃であって、心を惑わす寵姫などはいらない。
セシリアと距離を置いて、国の拡大のことに専念しなくてはならない。いつまでも、快進撃など続かないことは承知だ。
今が波に乗っている時だ。この機を逃してはならない。
レオナルドは宰相を呼んで、北に行く準備をするように命令した。出発は二日後。あそこで暴れている反乱軍を、今のうちに討伐しておかなければならない。
これまでは、過激な戦いの最中こそが、レオナルドの一番魂が燃える時だった。この戦いに没頭すれば、セシリアのことなど、すぐに忘れてしまうことだろう。
しかし。
その前に、すべきことがある。
*
翌日の夜、レオナルド陛下はセシリアの部屋を訪れた。
また来たか。
陛下は、待つということを知らないお方だ、とリリルは呆気に取られた。
「お元気になったと聞いておりますが、いかがですか?」
リリルはそんなことは誰にも言っていない。けれど、食事係やお花の取り換えなど、部屋には常に使用人が出入りしているから、誰かが伝えてしまったのだろう。
「はい」
エリウスは囁くように答えた。
「それはよかった。食事はできますか?」
「はい」
「では、セシリア姫、今日は特別な場所で食事をしましょう」
レオナルド陛下が微笑んだ。
エリウスの心には、どうしようもない不安が渦巻いていたのだが、そのやさしい表情を見て、エリウスは少し安堵した。
「こちらへ。またお運びしましょうか」
「大丈夫です」
「遠いですから、遠慮しないで、どうぞ」
陛下は柔らかな声で両手を広げ、姫を抱きかかえて長い回廊を歩き、城内の美しい一室へと案内した。部屋は豪華で、目を奪うような美しい料理が並んでいた。
「セシリア姫、あなたのために特別に用意させました」
「はい」
「私は明日から、北部のほうに行きますから、一週間ほど、城を空けます。それで、発つ前に、一緒に夕食をしたかったのです」
「戦いですか」
「そうです」
とレオナルドが苦笑した。
「では、いただきます」
エリウスは緊張しながら料理を口に運ぶ。
レオナルドはその仕草が愛しくてたまらないといった顔をしている。
「どうですか?」
「おいしい……」
エリウスは食事を味わう余裕などないのだけれど、笑顔を作って答えた。
その笑顔ときたら、春に咲く小さな花のように、本当にかわいらしく、レオナルド陛下が微笑むのも無理はないとリリルは思う。
「喜んでくれてうれしい」
エリウスが恥ずかしくなってしまうほど、レオナルドが真剣な眼差しで見つめていた。
エリウスが目を上げると、そこには彼の瞳があるのだ。
「セシリア姫、あなたは私をどう思っていますか?」
その質問を聞いて、エリウスは恐ろしかった。どう答えても、後悔するのではないかという恐れが頭をよぎる。
「尊敬しています……」
その言葉に、レオナルドはその言葉に、やや寂しげな表情を浮かべた。
「尊敬か。それは、ある意味残酷な言葉だな」
それを聞いて、エリウスの胸がひどく痛んだ。
「……すみません」
エリウスが頭を下げると、レオナルド陛下はすぐに肩をすくめて言った。
「謝ることではない。セシリア姫は私を嫌いですか?」
「いいえ」
「好きですか?」
「……はい」
「じゃ、今夜、結婚しても、よろしいのですね」
えっ。
本当に、そんな……今夜?
「……はい」
と、エリウスが答えた。ほかに答えはない。
すると、レオナルド陛下は、一枚の紙を取り出した。
「ここに署名をしてください。私は式や披露宴のようなことは好みません。ああいうものは、しなくてよい。でも、あなたが望めば盛大にやりますが」
「はい。いいえ」
「今夜は、ふたりの記念として、こうやって祝いたかったのです」
「……はい」
「いやなら、無理強いはしません」
「……いいえ」
「よいのですか?」
「はい」
「あのう、署名に、証人はいらないのですか」
とリリルが口をはさんだ。
「いりません。私が国王ですから」
レオナルドはペンをわたし、姫はペンの先をじっと見つめてから、「エルナリス国第一王女セシリア」と名前を書いた。
ふたりの署名が終わると、レオナルドはエリウスの唇に初めはやさしく、そしてかなり攻撃的な熱いキスをした。エリウスは押されてよろめき、リルルは思わず目を逸らした。
「次のことは、私が遠征から帰ってきた時に」
「……はい」
エリウス様ときたら「はい」なんて返事をしちゃって、意味がわかっているのですか、とリルルはじりじりとしていた。
でも、できることは、何もない。
ここから逃れる方法はあるのだろうか。
でも、目の前には、一週間という時間がある。