39. あの日のバルコニー
レオナルドが重々しい音を立てて鍵を回し、バルコニーへの扉を開いた。
エリウスはまるで曲芸師を見る子供のように、急いで中に入って行った。
ここだ、ここです。
彼は手すりに両手を置いて、乗り出すようにして目の前の景色を眺めた。
エリウスは、あの時と同じ姿勢をしているとレオナルドの目が釘付けになった。
エリウスは、自分がどうやってここまで来たのか、覚えていないが、レオナルドの「これが、私の最も好きな景色だ」という声と、この光景は不思議とよく覚えている。
あの時、陛下は「これからは、私の好きなものを全部、あなたに見せたいのです」と言ってくれた。
エリウスはあの時のことを思い出し、目の前の夕焼けを見ていると、あの言葉が胸にじんわりと広がっていった。泣きたいような気持ちになった。
空は燃えるように赤く染まり、草原は黄金色に輝いている。遠くの町からは、夕餉の煙が幾筋も立ち上っている。あの日と、同じ光景だった。
エリウスが笑顔で、振り向いた。
「この景色だけは、まるで昨日のことのように覚えているのに……どうして、ここまでの道のりが思い出せなかったのか。今、わかりました」
とエリウスが愉快そうに微笑んだ。
「どうして?」
「慣れないヒールに、足が痛くて、そちらに意識を奪われていたから」
ふたりは、同時に吹き出した。
「そうだったね。それに、きみが何も言わなかったのは」
「声を出すと、すぐに男だとばれてしまうから」
「あの時、リリルが饒舌だったのは、そういうことか。随分とでしゃばる女官だと思ったよ。魔女かと思ったりもした」
「リリルも、必死だったのです」
ふたりの視線が交わり、声をたてて、笑った。
「こんな日が、来るものなのですね」
「生きていればな。エリウス、生きていてくれて、ありがとう」
レオナルドが笑顔で、肩を叩いた。
「陛下、何をおっしゃられるのですか……」
エリウスはレオナルドの瞳を覗きこむようにしていたが、その顔がだんだんと真剣になったかと思うと、突然、その頬を両手で挟み、顔を近づけて、唇を重ねた。
それは問いかけるような、答えを見つけたいというような、どうしても相手の真の気持ちを確かめ合いたいというような、そんな攻撃的な口づけだった。
レオナルドも感じていたことは同じだったので、それに熱く応じた。
ふたりの間には、言葉はなく、ただ魂を探り合うような、深い情熱が魂の奥まで届いたような、そんな口づけだった。
唇が離れた後、ふたりは荒い息をしたまま、熱を帯びた頬を見つめ合った。
そして、レオナルドが先に視線を逸らし、エリウスがゆっくりと足元の石畳を見つめた。
「あの時、ぼくは、愛したかったのです。でも、できなかった」
「きみが突然去ってから、私は、セシリアのことを……何度、思い返したか知れない」
ふたりは、空気が揺れたようで見回すと、周囲の緊張を破るような存在がいることに、ふと気がついた。
「リリル……、なぜ、ここに」
とエリウスが呟いた。
「あなたは、誤解なさるかもしれませんけれど」
とレオナルドが言いかけた時、リリルはそっと手を挙げ、彼の言葉を遮った。
「いいえ、私は誤解などしていません」
とリリルが毅然とした声を出した。
「私は、すべてを理解しています。今、そこにいらっしゃったのは、あの時のセシリア様です」
彼女はつかつかと歩み寄り、エリウスの手を取った。
「こちらは、私の夫のエリウス様です。そのことは知っておりますから。ですから、何もご心配なさらないでください」
リリルは陛下に一礼し、エリウスに柔らかな微笑みを向けた。
「さあ、参りましょう。みんながお待ちかねですよ」
「そうだったね」
エリウスとリリルは礼をした後、バルコニーを出て、並んで宮廷の奥へと続く長い廊下を歩いて行った。
「私は国王とのことはいつも気にかけていましたから、おわりの時を見られて、安心しました」
リリルが先に口をひらいた。
「うん、おわりだよ」
とエリウスがリリルの左手を握った。
リリルはそっと右手の指先で涙を拭い、そして、握られた左手に、ぐっと力を込めて握り返した。
リリルの頬を、一筋の涙が静かに滑り落ちた。
了




