38. さいごの夜
アストリウスを発つ前日、エリウスは父王と姉のセシリア、そしてリリルの四人で夕食を共にした。
燭光に照らされた迎賓館の食堂では、国王は旅が終わったらどうしても国に帰ってきてほしいと、エリウスに何度も念を押した。
「国のためだけではない。父親としても、きみたちに、そばにいてほしいのだよ」
エリウスが曖昧な態度をしていたので、国王がリリルに向かってやさしく微笑んだ。
「いいかい、ふたりで、必ず、帰ってくるのだよ。どんなことをしても、エリウスを引っぱって、帰ってくるのだよ。リリル、きみにしかできない仕事だ」
「はい」
とリリルが答えた。
迎賓館を出ると、エリウスがリリルを振り向いた。
「リリル、緊張したかい」
「はい。とても」
「もう緊張しなくてもいい。父上にも、姉上にも会ったのだから。さぁ、今夜はゆっくり楽しむといい」
その夜、リリルは女官仲間だったソフィラと過ごす予定になっていた。親衛隊の任務を終えた後、婚約者のルイカが加わるかもしれなかった。
「ぼくには今夜、どうしても会わなければならない人がいるから、あとでね」
とエリウスが言い、リリルが頷いた後、ふたりは廊下を左右に別れた。
エリウスには、発つ前に、整理しておかなければならない思いがあった。廊下の端にある窓から柔らかな月光が差し込み、少し首を垂れた男の影が、床に映し出されていた。
数日前、剣士たちのための晩餐会で、エリウスは国王の二つ隣の席に座っていたし、庭でも偶然に再会した。しかし、彼の顔が仮面で覆われていたこともあり、国王に気づかれることはなかった。
初めて王の顔を見た三年前、その時、エリウスは彼を物悲しげな人だと感じた。しかし、出会った後の彼の表情は、温和で、やさしくて、情熱的なものだった。
しかし、今回は、あのような表情を、一度も見ることができなかった。
エリウスは陛下の部屋の扉をノックした。
「どうぞ」というレオナルドの懐かしい声が響いた。
エリウスが部屋に入ると、レオナルドは窓を背にして立っていた。窓から差し込む月光が彼の背中を照らし、その姿はどこか神秘的で、三年前と同じようにも見えるし、どこか違うような気もした。
「ゼリアンです」
「ああ。先日、庭で会いましたね。今度の模範演技はみごとでした」
「ありがとうございます」
エリウスは息を整えた。
「国王、ぼくが誰かわかりますか?」
レオナルドがじっと彼の顔を眺めた。
「ん。今なら、よくわかる。セシリアの弟のエリウスだな」
窓から差し込む青白い光が入り込み、レオナルドの声には少し困惑が含まれていた。
「はい。そのエリウスです」
「王妃が弟は留学していると言っていたが、戻ってきたのか」
「はい」
「それはよかった。セシリアがさぞ喜んでいることだろう」
レオナルドが喜びの表情を浮かべた。
エリウスはここで会話を切ることもできた。しかし、彼は続けた。
「国王、私が誰かわかりますか。三年前、私は姉の身代わりでセシリアとして国王に嫁ぎ、ここで、陛下と、二週間暮らしました」
「ゼリアンがエリウスで、エリウスがセシリアだったということだな」
レオナルドの眉がわずかに動いた
「あの時は申し訳ありませんでした」
エリウスの声が少し震えていた。
「実は、ゼリアンの仮面が取れる時まで疑うことはなかったのだが、ようやく理解したところだ。三年前、きみがここにいた時には、まさかセシリアの身代わりだったとは考えてもみなかった」
「すみません」
「あやまることは、ひとつもない」
レオナルドはそう言いながら、顔をしかめて唇を噛んだ。
「なぜですか」
ぼくに謝ることは、ひとつもないことなんてないはず。すべてが、ぼくの責任なのに。あなたを騙していたのだから。
レオナルドは深い呼吸をした。
「あの頃、私はセシリアに夢中だったよ。それは異常という意味ではない。鋼のようだった私の暗い魂に飛び込んできた天使のような存在を、私は天からの贈り物だと思っていた」
レオナルドの言葉が、エリウスの心を稲妻みたいに打った。
「でも、……ぼくは女子ではなかったから」
エリウスがそう言うと、レオナルドは一歩詰め寄った。
「わかるかい。私は、たとえばきみが話せても、話せなくても、目が見えても、見えなくても、男でも、女でも、恋をしていたと思う。どう言ったらよいのだろうか、きみの存在そのものを心から愛したのだよ」
レオナルドの声には真摯な思いが込められており、その言葉にエリウスの心中では、すまなさと、感激が、交じり合っていた。
「……同じです。ぼくも愛していました」
「それは、本当なのか。すっかり嫌われてしまったと思っていたけれど」
エリウスは首を横に振りながら、
「いいえ。本気で愛していました。でも、それができないから、逃げてしまいました」
そうなのか、とレオナルドは天を仰いだ。
「私はあんなに人を愛したことがなかったのだよ。愛することのできる相手と出会うのは、奇跡のようなのだからね。あんなに愛する人は、これからもないだろう。それでも、生きてはいけるが」
レオナルドの声には深い哀愁が漂っていた。
エリウスの心はすまなさでいっぱいで、自分の胸に押し寄せる感情を抑えようとした。
レオナルドはしばらく考えていたが、意を決したように、口を開いた。
「セシリア、いや、エリウス、抱き上げてもいいか。昔のように」
レオナルドが突然そう言うと、エリウスは微笑んだ。
「今は無理ですよ。重いですから」
「私だって訓練しているから、大丈夫だ」
レオナルドはそう言って、エリウスを両手で抱き上げた。
「セシリア」
レオナルドがそっと呼びかける声は、エリウスの心の深い部分に響いていた。
しばらくの間、レオナルドはエリウスを抱えたまま、動かずに立っていた。そして、彼はエリウスに向かってそっと囁いた。
「エリウス、もう一度だけ、あの時のセシリアになってはくれないか」
エリウスは静かに頷いて目を閉じると、レオナルドはやさしく唇を重ねた。
「これが最後だ」
そう囁きながら、エリウスをそっと床に降ろした。
エリウスはレオナルドの瞳を覗き込むように見つめていた。
「最後に、ひとつお願いがあります。」
とエリウスが言うと、レオナルドは深く頷きながら答えた。
「きみの頼みなら、何でも聞こう」
「ありがとうございます」
エリウスは微笑みながら続けた。
「陛下が一番好きだと言われた場所に、もう一度連れていってください」
「あのバルコニーのことか」
「はい。思い出の場所には行ってみたのですが、バルコニーに行く道がわかりません」
「あそこは、私しか入れない場所なのだよ」
レオナルドは腰を曲げて、机の一番下の引き出しから鍵を取り出した。
「久しぶりだな。行ってみようか」




