34. 懐かしい庭、懐かしい人
姉セシリアの部屋から帰る途中、エリウスは、この宮廷には美しい庭がいくつもあったことを思い出し、心が春風の中に花の匂いを感じた時のように揺れた。
エリウスがエルナリス国にいた頃は、詩を読むことや、静かに庭を眺めることが好きだった。草花の揺れる音、風に運ばれる花の香り、季節の移ろいを語る色彩。剣術よりも、そういうことのほうが好きだった。
そんな彼の好みを察してなのか、レオナルドがある朝、庭に連れ出してくれたことがあった。王城に来てから、まだ数日しか経っていない頃のことだ。
記憶の中の庭園は、まるで夢の断片のように輝いていた。
陽光に照らされた花々は色とりどりに咲き誇り、深紅のバラ、純白のユリ、そしてデルフィニウムの澄んだ青が、手入れの行き届いた芝の上に鮮やかに映えていた。噴水から高く吹き上げられた水は、空に溶けるように弧を描き、その雫が陽の光を受けて虹のようにきらめいていた。
その噴水のある庭に、彼は来てみた。エリウスの中に埋もれていた記憶が静かに蘇ってきた。
あの時、エリウスは仮病を使い、ほとんどの時間をベッドで過ごしていたから、ようやく外に出ることができて、心の底からうれしかったのだ。でも、ヒールに慣れておらず、足を痛めた彼を、レオナルドが抱きかかえ、部屋まで運んでくれたのだった。
今思えば、あの頃の自分はまるで素人芝居のような「セシリア」を必死に演じていた。それなのに、冷血と呼ばれたこの国の王は、そんな自分を二週間も見逃してくれた。
エリウスは思わず、自嘲気味に笑った。よくも見抜かれなかったものだ。それとも、レオナルドは見過ごしてくれていたのだろうか。
レオナルド国王は、聞かされていたような冷たい人なんかじゃなかった。あたたかくて、やさしくて、そして、おしゃべりで……。
そんなことを考えていた時だった。花の陰に、人の姿がちらりと見えた。
その立ち姿がレオナルドだと認識した瞬間、エリウスは素早くポケットから銀の仮面を取り出し、顔にかけた。そして、息を詰めるようにして、その場を離れようとした。
「そこのお方は」
レオナルドの声が、柔らかくも鋭く響いた。
「ゼリアン剣士ではないですか?」
「……はい」
エリウスは振り返り、礼をした。
つい先日、歓迎晩餐会で同じテーブルに着いたばかりだったが、国王が彼の正体に気づいた様子はなかった。その記憶を思い出しながら、彼は内心を落ち着かせ、平静を装った。
「サラカレから参りましたゼリアンです。このたびは、ご招待にあずかり、ありがとうございます。勝手に庭に入り、失礼いたしました」
「それは全くかまいません。サラカレ大会の勝者、ゼリアン剣士の噂はかねがね聞いております。王妃も大会に来てくださることを知り、とても喜んでおりましたよ」
「王妃のためにこの大会を開かれたと伺っております。なんて幸せな王妃さまでしょう」
「そうでしょうか。……そんなことは、ないのですよ」
「よき夫婦とは、どんなものなのでしょうか。ああ、失礼をいたしました。私、最近結婚したばかりでして、つい変なことを聞いていまいました」
「かまいません。ゼリアンは結婚しているのですか」
「はい。つい最近のことです」
「どうですか、結婚生活は」
そう問いかけたレオナルドは、ふと微笑みながらつけ加えた。「いや、どうですか、は妙ですね。そう聞くものではないか」
エリウスは苦笑しながら、ゆっくりと頷いた。
「私が剣士となり、優勝できたのも、妻カトリーヌのおかげです」
「その女性が尽くしてくれたから、結婚したのですか?」
「それは、違います」
エリウスが強く言った。
「ぼく達は金貨の裏表のような関係です。ふたりで一枚。どんな時も、共にやってきました。支えられたのは、私だけではありません。私も、彼女に多くの喜びを与えてきたつもりです」
「たとえば?」
とレオナルドが近づいてきたので、エリウスが少し後ずさりした。
「もしよろしければ、少し聞かせていただきたい」
「たとえば、ぼく達は、夜は、ふたりとも、大衆食堂で働いていました。家は山の上にありましたから、帰り道は、彼女が灯を持ち、私が妻を背負って山道を登りました。私は体幹も弱く、足腰も頼りなかったので、でも、そんなふうにして、少しずつ、強くなっていったのです。そんな努力の日々は楽しいものでした」
「努力は、楽しいものですか。あなたにとって、苦しいものではないのですか?」
「山を登っている最中は、もちろん苦しいだけです。もういやだと思います。でも、頂上に着いたときは爽快です。山の空気は澄んでいて、気持ちがよくて、登ってよかったと思えました」
「そうかぁ」
レオナルドは伸びをしながら、空を見上げた。「……なにか、今日は気分がよい。あなたとお会いしたからでしょうか」
レオナルドが、そのまま、まっすぐにエリウスを見つめたから、エリウスは、視線を逸らした。
「ゼリアン剣士とは、どこかでお会いしたことがありましたか」
「いいえ」
「前に、似たような空気の方に、会ったことがある気がします」
「どんな方だったのですか?」
「その人といると、ただ生きているだけで楽しくなるような……そんな、不思議な人でした」
「その人は、今はどちらに?」
「さあ。嫌われてしまいましたからね。もう、私のことなど覚えてもいないでしょう」
ちょうどその時、側近が現れたので、会話は、唐突に終わりを告げた。
「あなたとの会話をもっと続けたかったのに。残念です」
彼は名残惜しそうに庭を見渡し、微笑んだ。
「この庭には他の者は来ませんから、どうぞ、ご自由にお楽しみください」
そう言って、レオナルドは一礼すると、静かに去っていった。
エリウスはその背中を見つめながら、心の中でそっと呟いた。
ぼくはあなたを嫌ってもいないし、忘れてもいない。




