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33. セシリアの幸せ

 翌朝、エリウスが稽古場に足を運んだ時、そこには、姉セシリアが家臣を相手に剣を交えている姿があった。


 一年前に出産を終えたばかりとは思えないほど、その動きは鋭く、力強い。かつての自分では到底敵わなかっただろう。だが、今のエリウスには、彼女の剣の動きが、まるでスローモーションのように見通せるのだった。


 自身の稽古のあと、エリウスは着替えて、ひとりでセシリアの部屋を訪れた。


「姉上の部屋に行くけれど、今日はひとりで行く」

 とリリルには伝えた。こっそり出かけて、余計な心配をかけてしまいたくないからである。


「はい。姉弟おふたりって、お久しぶりですものね。セシリア様は、どんなにかお待ちのことでしょう」

 とリリルは笑顔で答えた。

 

 懐かしい部屋の扉を開けて中にはいっていくと、セシリアが金髪を揺らしながら勢いよく駆けてきて、おもい切り弟に抱きついた。


「私のかわいいエリウス、私がどれほどあなたに会いたかったか、わかる?」

 その言葉に、エリウスが大きな笑みを返した。体格は大きくなっても、この美しい笑みは、エリウスのもの。変わっていないとセシリアは涙ぐんだ。


「ぼくも会いたかったです。その十倍」

「私は百倍」


「サラカレで大会のちらしを見て、姉上がレオナルド王と結婚されたようだと知った時には、驚きました。ご無事とわかって、本当にうれしかった」

 セシリアは視線を落とし、小さく頷いた。

「ありがとう。まさかあなたがサラカレで剣の修行をしているなんて、思いもよらなかったわ」


 少しの沈黙を置いて、エリウスは問いかけた。

「姉上は……幸せですか?」

 その問いに、セシリアはわずかに微笑みながらも、どこか遠い目をして答えた。


「ええ、子どもも健やかに育っているし、こんな大会を開けるほどには国も落ち着いている。幸せ、だと思いたいわ」

「思いたい、というのはどういうことですか。幸せではないのですか」


 エリウスが続きの言葉を待つと、彼女はかすかに唇を引き結んだ。

「レオナルド王は、もともと寡黙なお方。領地や戦争のことばかりで、私とは心を通わせているとは言いがたいけれど。でも、結婚とはそういうものでしょう。期待しなければ、失望もしない。それに、私には王子を立派な王へと育てるという役目がある。それが今の私のすべてです」


 セシリアの声には、どこか諦めと冷ややかさが滲んでいた。エリウスは、あの時のレオナルドの面影を思い出していた。彼は饒舌で、熱くて、ロマンチックな男だったはず。

 

「昨夜ね、あなたの結婚のことを思って、ひとりで泣いてしまったわ」

 とセシリアが顔を曇らせたから、その涙が喜びのものではなかったことは明らかだった。


「どうしてですか?喜んでくれたのではないのですか?」

 とエリウスが驚いた。


「私が、あんな身代わりなんて頼んだから。あなたの人生を変えてしまったと、かわいそうすぎて泣きました」

 と彼女は視線を逸らしながら答えた。


「身代わりが、かわいそう?じゃ、姉上、ぼくが身代わりをしたことは、思い出したのですか?」

「ええ」

 とセシリアがため息をついた。


「実は、思い出したのは、かなり前のこと。でも、記憶を呼び戻して語ったところで、ややこしくなるだけで、よいことは何もない。そう思って、封印することにしたの」

 しかし、彼女の声には後悔が滲んでいた。


「でも、あなたとエルヴィンには謝りたい。私があんなことをしなかったら、エルヴィンは生命を落とすことがなかったはずだし」

 エルヴィンのことを語るセシリアの表情は痛ましかった。


「姉上、エルヴィンのこと、今でも……?」

「ええ。心から愛した人は、彼だけ。今でもね」


「それを陛下が知ったら……お寂しいのでは」

「それは、大丈夫。あの人にも、忘れられない女性がいるのだから。口には出さないけれど、そういう気配はしっかりと感じている。でも、それが何だというの。私達はそういうことには、触れないのです。国王と王妃ですもの」


 ところで、とセシリアがエリウスを見つめた。

「昨夜、あなたが下級女官と結婚したと知って、どうしようもなく悔しかったわ。私があんなことをしなければ、あなたは王女や貴族の令嬢と結ばれていたはずなのに」


「姉上、それは違います」

 エリウスは静かな声で、しかし、はっきりと否定した。


「ぼくは、リリルと出会えたことを何よりの幸運だと思っています。身代わりの件がなかったとしても、ぼくはどこかでリリルと出会い、結ばれていたと信じたい」

 

 その言葉に、セシリアは苦い笑みを浮かべた。

「まるで庶民のようなことを言うのね」


「こんなことを言って悪いのですが、姉上は王妃になられたというのに、少しも成長しておられないのが残念です。ぼくがもし宮廷に残っていたら、同じような考えをしていたかと思うと、怖くなります」


「私が成長していないですって。そう思うのは勝手ですけれど、私に言わせると、あなたの考えは後退しています。あなたは、そういう道を歩む人ではないのですよ。あなたはエルナリス国の王子なのですから」

 セシリアは唇を噛み、そうだわと頷いた後で、こう言った。


「では、大会の最後に、私と一戦交えてみない? エルナリス国から父上もお見えになる予定ですから、あなたの成長されたご立派な姿をお見せしましょうよ」


「父上はお元気なのですか?」

「ええ。あなたをご覧になったら、きっと感激なさるはず。父王には四人の王子がいるけれど、どの王子にも失望しておられる。第一王子など浪費ばかりで、ひどいものよ。きっと、あなたに王位を継いでほしいと仰せられるかもしれない」


「まさか」

 とエリウスは苦笑を浮かべた。「姉上の想像力には敵わないよ。ぼくには剣しかないし、王の器ではないですよ」


「一つの道を極めた人は、他の道も極められる、そうではなくて」


「ぼくはまだひとつの道も、きわめてはいません。ぼくは模範演技を披露するために、ここに招かれたのですから、試合は遠慮します。この大会のあと、ぼく達は世界を見るために、旅に出る計画なのです。その前に、父上にお会いして、リリルを紹介できるのは、とてもうれしいです」


「またもリリルなの。どこまで、洗脳されてしまったというのかしら。その子の名前は、もう二度と聞きたくないわ」

 とセシリアの顔が意地悪く曇った。


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