32. セシリアとの再会
半年が過ぎると、セシリアの記憶はほとんど戻った。そして、レオナルド王は約束通り、盛大な結婚式を挙げたのだった。
ただし、セシリアの記憶には、あの「身代わり」にまつわる一連の出来事だけが、まるで切り取られたかのように存在していなかった。あまりに都合よく、あるいは何かを封じ込めているかのように、その部分だけがぽっかりと抜け落ちているのだ。
彼女が名前を呼び続けた弟エリウス王子は、「帝王学を学ぶために、四千年の歴史を持つ遠い国へ留学中」とされた。
レオナルドとセシリアの間には、何も起こらなかったかという曖昧な暗黙の了解が、それとなく存在していた。
結婚後、間もなくセシリアは懐妊したが、三ヶ月という短い期間で、その小さな命は失われてしまった。しかし、彼女は悲しみを乗り越え、再び新たな命を宿し、無事に男の子を出産した。王子には、父への敬愛と、未来への希望を託して、「レオナルド・エリウス・ジュニア」という名が与えられた。
ジュニアは健やかに育ち、一歳を迎えたことを祝して、若者たちのための「セシリア王妃杯剣術大会」が開催される運びとなったのだった。
*
結婚に至るまでの話をソフィラから聞いた時、エリウスとリリルはようやく、セシリアがすぐにアストリウスに来られなかった理由を理解した。
すぐにでも姉上に会いに行こうとするエリウスを、ソフィラがたしなめた。
「もう夜も更けていますし、きっとお休み中ですわ。日を改めて、驚かせて差し上げるのはいかがでしょう」
「それもそうなのだけれど……ぼくは、明日まで待てそうにないよ」
そう言いながら、エリウスは小さく笑った。「せめて、寝顔だけでも。あと、甥のエリウス・ジュニアにもぜひ会いたい」
それを聞いて、ソフィラがくすりと笑った。
「そういうところ、昔からお変わりないですね」
彼女のほうが宮廷では先輩で、エリウスの幼い頃のことをよく知っている。
「エリウス様は、そういう性格だったの?」
とリリルが尋ねた。
「はい。シルビア様とお出かけになる日などは、いつも扉の前でじっと、お仕度が終わるのをお待ちになっていましたよ」
「そんなこと、あったかな」
「わかりました。それでは、セシリア王妃様のお部屋へご案内いたします」
エリウスとリリルは、懐かしい廊下を歩きながら、うれしさがこみ上げて、時々、顔を見合わせて微笑んだ。
王妃の部屋に入ると、ソフィラは女官に「しーっ」と口元に指を当てて、静かにするよう指示した。
彼女とリリルが見守る中、エリウスはそっとベッドに近づき、その端に腰を下ろした。
「姉上……」
優しくそう囁きながら、彼女の頬にそっと手を伸ばした。
けれどセシリアは目を覚まさなかった。きっとお疲れなのだろうとエリウスは立ち上がり、静かにその場を離れようとした。
ちょうど三人が部屋を出ようとしたその時、セシリアが突然叫んだ。
「だれですか?」
「エリウス様ですよ」
とソフィラが答えた。
「エリウス……?」
部屋にいた女官が、部屋の明かりを一斉につけた。
「今話題のゼリアン様は、エリウス様なのですよ」
「えっ、あの剣士のゼリアンがエリウス?まさか」
「そうなのだよ。ぼくがゼリアンだよ。姉上、驚きましたか?」
「もちろんですよ。こんなに、驚いたことはなかったわ。まさか。あの噂の剣士があなたなんて……どうしてそんな立派な剣士になれたの?」
「ぼくは三年間、サラカレで修業していたのです」
「あのサラカレで。本当に、あなたは、弟のエリウスなのですか?エリウスは帝王学を学ぶために留学したと……」
「そんな話、どこから出たのですか?」
「留学していたから、私達の結婚式に来られなかったのではないのですか……」
「ぼくは、姉上が生きておられたことも、結婚したことさえ、最近まで知らなかったのですよ」
「エリウス、私がどんなに会いたかったか」
「ぼくもだよ」
エリウスが姉を抱きしめた。
「エリウス、あなたのことは、夢で何度も見たわ……あなた、本当に……」
セシリアは両手で彼を強く抱きしめ、肩を揺らした。
「姉上、ぼくは本物の弟のエリウスだよ」
「その瞳は……確かにエリウス。でも、どうしてサラカレになど行ったの?」
「姉上は、ぼくがこの国にいたことを覚えてないのですか?」
セシリアがわからないと首を振った。
「でも、なにか、とても申し訳ないことをした気はしているの」
リリルが静かに口を開いた。
「セシリア王女、エリウス王子、ソフィラ様と私の四人で、エルナリスの国を出発したのを覚えていらっしゃいますか?」
「それは何のこと?」
「エリウス様は先にこちらに到着されましたが、セシリア様が追いかけて来られなかったので」
「エリウス、私のために、つらい思いをさせてしまったのなら、ごめんなさい」
「そんなこと、よいのですよ。姉上が戻って来ようとしてくれていたってわかったから。生きていてくれただけで、それだけで十分ですよ。ひどい怪我をされたと聞いています。大変だったですね」
セシリアはリリルに視線を移した。
「あなたがリリルね。思い出しました。エリウスを守って、ずっとそばにいてくれたのね。ありがとう」
「いえ、私が、エリウス様と一緒にいたかっただけなんです」
「姉上、報告があるんだ」
エリウスが少し照れながら言った。
「報告?」
「ぼくはリリルと結婚したのです。ぼくたちは、夫婦になったのだよ」
「……なんですって?」
一瞬、セシリアの表情が変わった。けれど、すぐに微笑みを取り戻した。
「ああ、それは、おめでとう」
と祝福を口にした。
ちょうどその時、隣室から赤ん坊の泣き声が聞こえてきて、女官が駆けて行った。
「王子に、お乳をあげないといけないわ。また、続きは明日でもいいかしら」
「もちろんです」
立ち上がる時、セシリアはそっと弟の耳元で囁いた。
「エリウス、明日は、ひとりで来て」




